コレクション・モノ語り(あ行)
アイスクリーム保冷箱
夏が近づくと、季節感を演出するために駄菓子屋の情景展示に必ず加える資料の一つに、ここに紹介するアイスクリーム保冷箱がある。電気冷凍ケースが普及する以前、アイスクリームの店頭販売用に使用されていたもので、「アイスボックス」や「ストッカー」とも呼ばれていた。アイスクリーム製造業者が、主に小売店での店頭販売用に貸与した専用の保冷容器である。社名、商品名やキャラクターが描かれたケースは、木材の骨組みを金属板で覆っただけの比較的簡単な作りであるが、その内部には口が広く胴長な巨大ガラス製魔法瓶がおさめられていた。魔法瓶の高い保冷力を活かして、ドライアイスによってアイスクリームを保冷するものであった。大手魔法瓶メーカーの社史をひも解くと、需要のピークは昭和32(1957)年で、業界全体での年間出荷台数は16万台に達したという。しかし、昭和30年代末ごろには、電気冷凍ケースの普及に伴い店頭から姿を消していくこととなった。
脚付まな板
料理の材料を切るときに用いる板である、まな板は、「真魚板」とも書き、真魚(まな)は料理に供する魚をいう。さて、今、家庭で使われているまな板を思い出してみよう。どんなまな板だろうか。多くは、プラスチック製の白いまな板を使われていることと思われる。値段も手ごろで、魚や肉類をさばいた後、殺菌消毒が簡単にできることから衛生的であることが最大の利点だろう。もちろん、ヒノキ製の一枚板のまな板でなければ、まな板にあらずとされている方も多いと聞く。それでは、写真のような一枚板に脚が付いたまな板を現在も使われている家庭は、どのくらいあるだろうか。このまな板は、戦前から昭和20年代に使われていたもので、まな板の両端に3〜5cm ほどの高さの脚が付いている。これは、木材が1本ずつ取り付けられているものであるが、四隅にそれぞれ脚が付いた四脚のものもあった。かつては、こうした脚付きのまな板が主流であった。では、いつごろ、まな板の脚は消えたのだろうか。それは、昭和30(1955)年ごろから現代のようなステンレスの流し台、システムキッチンが用いられるようになり、その上で調理を行うようになったことで脚が消えたようである。以前は、板の間や低い調理台でかがむようにして調理していたため、まな板には脚が必要であったのだ。
アップリケ
昭和30~40年代にかけて刺しゅう、編み物、人形・ぬいぐるみ作りなどの手芸が一大ブームとなった。当時の手芸集を開くと必ずと言っていいほど目につくものが、アップリケを飾りにあしらった小物類やアップリケ用の図案集である。アップリケはカバン、のれん、敷物などの手芸作品から服にいたるまで、装飾として広く用いられたが、特に乳幼児の服や小物は、動物や花などのかわいらしいアップリケで飾られることが多かった。昭和31(1956)年の『手芸教室10 アップリケ手芸集』には、アップリケは「むかしからある手芸の中で、一番やさしい手芸として親しまれている」とされ、また「このアップリケの材料は、わざわざお買いにならなくても、お家にあるはぎれを利用して色どりよくお作りになつたほうが、図案によつて引立つ場合もあります。」と紹介されている。手近にある端切れでもできるという手軽さに加え、図案を切り抜いて縫い付けるという単純なものからフランス刺しゅうなどを組み合わせる高度なものまで、手芸の腕前に応じて仕上がりの難易度を調整できるということも、アップリケの人気を高めていた要因だろう。また、当時人気であった中原淳一や内藤ルネといったイラストレーターもアップリケ図案を手がけており、あこがれの人気作家の図案を自分の手で簡単に再現できることも人気の秘密であったようだ。
宇宙時代の到来
子どもたちが夢や想像に描いた未知の宇宙空間。その未知なる宇宙に人類がはじめて到達したのは、昭和30年代のことだった。アメリカとソヴィエト連邦との宇宙開発競争により「宇宙時代」が到来した。ソヴィエト連邦による昭和32(1957)年の人工衛星スプートニク1号の打ち上げ成功に続き、昭和36(1961)年には、ガガーリン少佐らを乗せたボストーク1号による人類初の有人宇宙飛行が実現した。そして、昭和44(1969)年には、アメリカによるアポロ11号での人類史上初の月面着陸が成功し、全世界的な宇宙ブームが巻き起こった。このアポロ11号の打ち上げから月面着陸までの一部始終は世界各国でテレビ中継され、日本ではNHKが衛星生中継で放送を行った。着陸の様子は大人から子どもまで固唾をのんで見守り、着陸成功時の瞬間視聴率はNHKの調べによると68.3%におよび、全世界では6億人もの人がこの偉業を見守っていたとされる。
運動足袋
行楽シーズンの10月。子どもの頃、この時期に楽しみにしていたイベントといえば遠足と運動会だろう。 運動会では玉入れ、綱引き、徒競走やリレーなどの競技を全力で楽しんだ思い出があるが、その時の足元は何を履いていたかご記憶だろうか。 裸足、運動靴に加えて、写真のような「運動足袋」を使ったという方もいらっしゃるだろう。これは運動専用に作られた足袋で、スポーツ足袋、マラソン足袋、競争足袋、裸足足袋など、商品名と呼び名は多様である。足裏に布で補強がされ、足首部分はゴムを入れ、丈夫で動きやすい作りになっている。主に運動会で活躍したもので、昭和30年代から40年代ごろまで使われていたが、地域によって使われた時期は異なるようだ。 使ったことがある方に運動足袋の思い出をお聞きすると、運動会が近づくと買いに行ったこと、運動会の当日だけに履く特別なものだったこと、足裏の補強があっても1日ももたずに底に穴が開いてしまったことなど、子どもの頃に戻ったような笑顔で懐かしそうに語ってくれた。
エジプト柄の流行
エジプト柄は、日本では明治時代から徐々に採り入れられていき、昭和時代に大きく流行、浸透していったようだ。明治から大正時代には、商標・広告のデザインや銘仙などの図柄として、ピラミッドやヤシの木などがよく採用されていた。その一例として、明治時代末期から大正時代にかけて「ライオン歯磨き」の記念品(絵葉書や風呂敷)などに、トレードマークのライオンとともにピラミッドやヤシの木がデザインされている。昭和時代に入ると、大正11(1922)年のハワード・カーターによるツタンカーメン王墓の発見をきっかけとして、エジプト柄の流行が起こった。昭和初期には、本やアルバムなどの装丁、銘仙の図柄などの商品デザインとして広がっていった。そして、戦争を挟んで停滞していたエジプト柄の流行は、昭和30年代に入るとその勢いを大きく盛り返していった。昭和30年代には、世界各地の古代文明に関する大型の展覧会が次々と開催され、古代文明への社会的関心が大きく高まった。昭和38(1963)年「エジプト美術五千年展」、昭和40(1965)年「ツタンカーメン展」の開催は、空前の古代エジプト文明ブームを巻き起こし、エジプト柄大流行を引き起こした。昭和30~40年代にかけて、エジプト柄は服飾、包装紙類、装飾品などにとどまらず、家具や壁紙などへも大きく広がっていき、定番のデザインの一つとして定着、浸透していった。
置き薬
家庭用の置き薬。東海地方では富山からやってくる薬売りが有名である。引き出し式の薬箱が各家庭に常備され、その中に、風邪、歯痛、腹痛の薬など、暮らしの中で必要となる薬が納められていた。その中から使った分だけを年に数回、薬屋さんがやってきて補充、その代金を徴収していくという江戸時代から続くシステムである。幾重にも重ねられた柳ごうりを縁側で広げると、さまざまな種類の薬が効率よく収納されていたことを思い出す。定期的に使った薬を確認するこの機会は、家族の健康状態を確認する機会でもあった。この置き薬の補充の際、子どもにはおまけがもらえた。その代表格が紙風船である。手元にある紙風船には、時代を映す絵柄が描かれており、動物と一緒に仲良くシーソーを楽しんでいる様子などがプリントされており、昭和30年代のものと思われる。口を細めて紙風船の小さな穴から息を吹き込むと立方体にふくらみ、手のひらで突き上げると、クシュとかパンッと、少し空気が抜けるような音を伴って、手のひらに不思議な感触が残った。薬のおまけには、他にもコマやクレヨンなどもあった。紙風船は、昭和40年代に入るとゴム風船に代わっていった。
置物土産
国内旅行が盛んだった昭和30〜40年代、お土産といえばこけしや貝細工などの置物が定番であった。旅の思い出として買い求めたもの、知人からもらったものなど、土産の置物をまとめて飾るための定位置となる空間が、どこの家にも必ずあったものだ。たんすの上の飾り棚、本箱の上、茶だんすの棚、応接間のサイドボードが、その空間となることが多かった。我が家では、サイドボードの中に未開封の洋酒瓶とともに各地のお土産が並んでいたのを覚えている。また、置物系のお土産の中には、小さなこけしとともに旅先の名所や絶景をジオラマのように再現したものもあった。誰でも簡単に美しい景色を写真に残せるようになった現在とは違い、当時は旅先の風景を持ち帰ることができるお土産が人気であった。旅行者自身にも重ねられる小さなこけしの背景には、理想的な旅先の思い出の風景、特徴的な名所・旧跡・名物が凝縮された世界が広がり、一目で記憶の中の旅の風景を思い起こさせる造形とデザインの工夫が凝らされていた。
折りたたみ傘
突然の雨に備えて、カバンなどに常備しておくと重宝するのが折りたたみ傘だ。今ではボタン一つで自動開閉できる折りたたみ傘も販売されているが、子どもの頃には折りたたむ仕かけに大いに興味はあるものの、それゆえの扱いにくさにより、なかなか使いこなすことができないものでもあった。コンパクトにたたまれた折りたたみ傘を得意気に開いたまではいいが、雨上がりに元通りきれいに折りたためず、結局無造作に閉じた状態で持ち歩くしかなくなり、片手をふさがれてしまうということもしばしばだった。そんな折りたたみ傘が日本で製造されるようになったのは昭和20年代の半ば頃。昭和26(1951)年には、現在の折りたたみ骨の原型となるホック式と呼ばれる親骨が開発された。さらに昭和29(1954)年には、簡単に開閉できるスプリング式の折りたたみ骨が発明されるとともに、防水性に優れた低価格な新素材ナイロン生地を採用したことで、折りたたみ傘は急速に普及していった。また、昭和35(1960)年頃からは、現在雨傘の主流素材となっているポリエステル生地が採用されるようになった。昭和40(1965)年には、親骨が従来の2段式から3段式となったコンパクト傘、三段折りのミニ傘の登場、骨のアルミ合金化も進むなど、徹底した小型軽量化が図られていく。