はじめての電化製品

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電化製品カタログ

 写真は、電化製品カタログである。「電化による生活文化の向上へ」と題されたカタログには「スイッチ一つの快適で能率的な日常生活、つまり電化による生活文化の向上もモットーにして…豊かな楽しい生活をお築きくださいませ」と記されている。   暮らしを激変させた電化製品の値段から、当時の暮らしを垣間見ることができる。   まずは、なんといってもあこがれであったテレビの値段。ブラウン管の大きさは14インチが主流で、65,500円、取り外し自由の脚が550円となっている。また、テレビの上に置かれた室内アンテナは650円であった。
  電気洗濯機は、噴流式が主流で、水流調整機能、自動反転機能、タイムスイッチ、オーバーフロー装置などがつけられ、値段は21,900円から27,300円までとりそろっている。いずれも手回し式の絞り器がついている。
  冷蔵庫は、家庭用の普及型58,500円(75リットル)、家庭用の実用型65,500円(95リットル)。   三種の神器と呼ばれた、テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫をそろえるには、14、5万円かかることになり、月給が平均3万円台、大卒の初任給が1万円ちょっとであった時代を考えれば、日々使う道具でその便利さ、楽しさは分かっても簡単に購入できるものではなかった。    

電気冷蔵庫

 電化製品が普及していった昭和30年代に「三種の神器」と呼ばれ、あこがれの的の1つでありながら、普及がやや遅れていたのが電気冷蔵庫である。
 もともと、家庭内で物を冷やすには、井戸にスイカなどをつるすなどの工夫がされてきた。
 また、傷みやすい食品などは必要な分をその日に買うなど、日常の暮らしの中では電気冷蔵庫がなくとも用が足せていたことや、冷蔵庫の値段が高かったことなどが、普及の遅れの理由だと聞いた。
 製氷業者から購入した氷を使う氷冷蔵庫も戦前から使われていたが、一家に一台という状況ではなかった。現代の私たちの生活からすると、想像しにくいことだが、それだけ生活が著しく変わってきたことを物語っている。
 さて、写真の冷蔵庫は昭和30年代に使われていたものだが、ドアの取手の部分にかぎが付けられている。果たして、どんなときにかぎをかけたのだろう?


 
 

 トースター

 「朝食はご飯ですか、それともパンですか」という会話をよく耳にする。日本人にとって朝食で何を食べるかは大切なことのようである。
  さて、多くの人が朝食でパンを食べるようになったのは、おおむね昭和30年代ごろからといえるようだ。このころからインスタントコーヒーやティーバッグの紅茶が出始め、それを飲むためのカップなど洋食器も一般家庭に普及していった。お勝手が流し台の付いたキッチンに変わり、ちゃぶ台がテーブルといすに変わっていったのもそのころだ。
  奥のトースターは、30年代半ばごろに使われたポップアップ式と呼ばれるもので、2枚のパンを両面とも焼くことができ、焼き上がり次第パンが跳ね上がってくる。
  他にも両側に付いたふたが外側に開き、パンを片面ずつ焼くタイプもあった。  

電気洗濯機

  電気洗濯機の一般家庭への普及は、テレビや電気冷蔵庫と同様に昭和30年前後から始まる。三種の神器の一つとして人々の憧れの電化製品だった。  一般家庭向きとはいえないが、それ以前から電気洗濯機は開発販売されていた。大正時代から昭和にかけて様々な電化製品の開発が進められ、販売にいたっている。  写真の洗濯機は昭和5年に米国「ソアー社」からの技術導入により東芝が「ソーラ:Solar(太陽の意)」の名で国産第1号の攪拌式洗濯機を開発し、370円で発売したものの最終モデルである。同型品は昭和25年まで製造されたようで、その頃のものと思われる。
 東芝によると「攪拌式は大きな3枚の攪拌翼が左右に往復運動させ、3つの水流を作って洗濯する。洗濯槽の底近くでは谷川の激流、中間では急流、水面近くは緩やかな流れができ」この3つの水流により、生地をいためず理想的な洗濯ができるとしている。

 洗濯槽はホーロー加工がされており、上部にはローラー式の絞り機が付けられている。  


 
 

テレビのカバー

 昭和30年頃、憧れの的であったテレビ。購入されたテレビは、床の間に置かれるなど貴重品扱いを受けていた。床の間に置かれなくとも、家族が集まる中心に鎮座していた。「もらいテレビ」という言葉があるように、テレビのある家に隣人が集まりそのテレビに釘付けになったという。 写真はテレビ専用のカバーである。高価なテレビは見ないときにはカバーをかぶせて破損やほこりがかぶるのを防いでいた。 写真のなかでテレビを覆っているカバーは、織布で厚みのある重厚なものである。もう一方は白地にテレビ、ミキサー、洗濯機、掃除機などの電化製品がプリントされ、開口部にはゴムひもが入っておりすっぽりとテレビを覆うことができるものだ。他にブラウン管の部分だけがめくれるタイプもあった。 テレビにカバー?視聴するときに外す?現代っ子にはまどろっこしい行為のように思うかもしれない。朝から晩まで、というより深夜・早朝も含めて番組が配信されている現代では、テレビはいつでもスイッチを入れれば番組を見ることができる。 しかし、テレビ放送が始まった頃は、番組が放送されている数も時間帯も限られたものだった。したがって、カバーをかぶせておくということもテレビが普及し始める頃には、不自然なことではなかったようだ。  

キッチン

 電化製品に囲まれて暮らしている私たちの暮らしは、おおむね50年ほど前に始まった。テレビが登場し、電気冷蔵庫、電気洗濯機、電気掃除機、電気釜など等、電気と名の付く道具が暮らしのなかに組み込まれていった。  写真は、北名古屋市歴史民俗資料館「昭和日常博物館」のなかに再現された昭和30年代後半から40年代頃のキッチンである。かつては、土をつき固めた土間でかまどを使ってご飯を炊いていた場所に、床をはり、壁を化粧ベニヤなどで覆い、ステンレスの流し台を設えるということが多くの農家で行われた。  電気釜の登場は、かまどで薪を焚いてご飯を炊くという伝統を消し、反面、新しい生活スタイルを提供してくれた。家のなかで薪を焚くことがなくなれば、ススも出ないし、土間も不要となるのである。したがって、ま新しいキッチンを作ることができるようになった。
 この頃から、ちゃぶ台がテーブル・椅子に代わり、畳がカーペットやピータイルに変わっていく。もちろん、従来のスタイルを維持して見える家庭も多い。それでも電化の波は勢いがあり、急速な広まりを見せたようだ。
 写真のキッチンを見直してみると、今の暮らしと極端に変わったところはない。ステンレスの流し台、冷蔵庫、炊飯器、テーブル、鍋、まな板など今でも使っているものばかりである。しかし、現実には40年から50年ほど前のものばかりである。
 私たちの暮らしの原点のようなものを、この時代に見出せるということかもしれない。  


 
 

電気釜の内釜

 電気釜は昭和初期頃から商品化されてきたが、爆発的に普及したのは、昭和30年に発売された電気釜の登場による。また、当時の宣伝文句のひとつに「おこげができない」がある。かまどで米を炊くとどうしても釜に直接触れる部分がこげてしまう。それが解消されるということである。電気釜の普及により、食生活からおこげが消えた。便利なようで、残念な気もするのがおこげ香ばしさ、おいしさである。
 電気釜の内釜は、通常ひとつの釜であるが、写真は、2つに分かれている。アルミ製のこの内釜どうやって使うのだろうか?当時の説明書などによると、一方でご飯を炊きながら、もう一方で別の加熱調理を行うためのもののようだ。米を炊きながら同時に味噌汁を作ることができるという品である。  

ヒューズ

 「ヒューズがとぶ」「ヒューズが切れる」という表現。今の子どもたちには何のことだかわからないだろう。20代・30代でも?かも知れない。
 「ブレーカーが落ちる」といえばもう少しわかりやすくなるだろうか。  写真は、かつて大活躍したヒューズである。ヒューズは、電気回路に、定格以上の電流が流れたりするアクシデントから回路を守る役割を果たしている。通常は電流を流しているが、何らかの異常が発生するとヒューズ自体が切れ、電気を遮断するというものだ。
 今では、ON、OFFの切り替えができるブレーカーが主流で、過度の電流が流れるとブレーカーがOFFの状態になり電流を遮断する。この方式ではスイッチをONに切り替えれば復旧することになるが、写真のヒューズでは、切れたヒューズを取り替えなければならなかった。左側のヒューズは、電気が引き込まれ各部屋へ分配するような場所、いわゆるブレーカーと同じような場所に用いられ、右側のガラス管に入ったものは、テレビなど電化製品のなかに付けられていた。  


 
 

タイマー

 写真は、昭和 30 年代頃のタイマーである。キッチンタイマーとして作られたもので、主には、炊飯器によく使われた。ご飯の炊き上がり時間を計算し、時間を合わせ、スイッチがオンになるようにプラグを挿入しておくことで、自動的にご飯が炊き上がった。
 プラグの差込口を見ると、3つの口がある。プラグを左から 2 つの部分に差し込むとセットした時間に合わせてスイッチが入り、右から 2 つの部分に差し込むとスイッチが切れるようになっている。このタイマーは、 12 時間後までの時間をセットできるもの。他には、時計と組み合わせることで、目覚ましをセットするのと同じような感覚で使用できるタイマーもよく使われていた。
 今では、さまざまな電化製品にはじめからタイマーが付いているが、かつては、このタイマーが重宝したようである  

コンバーター

 近年、テレビが進化しどんどん薄くなってきている。同時に、衛星を使った放送、ケーブル放送、地上波デジタル放送と放送の手法も変化してきている。既存のテレビにチューナーやアンテナを加えることで新たな番組を受像することができる。  かつても、同様のことがあった。写真は昭和40年代のコンバーターである。UHF放送が始まった頃、既存のテレビに取り付けることによってその放送を見ることができた。
本体の前面パネルにはUHFとVHFの切り替えスイッチ、13から62のメモリが記されたチューニングパネルがある。テレビ本体に組み込まれるまでの数年間活躍した品である。中京テレビや岐阜テレビ、三重テレビなど当時このコンバーターを使って受像した。
それほど昔のことではないが、テレビにまつわる思い出としては、多くの方の記憶に残っている。
他にも、テレビに取り付けるものとしてブラウン管の前に付けることにより、画面を大きく見せるものがあった。昭和 30 年代のテレビでは、室内アンテナもよく使われており、チャンネルによって向きを調整した。  


 
 

掃除機

ほうきとちりとりを”一掃”

 昭和の懐かしい暮らしの変化について考えるとき、最も分かりやすいのは私たちの今の生活と比較をすることだ。  私たちは日常の生活の中でさまざまな道具を使っている。今使っている道具がかつてはどんなものだったか、また初めて使ったり購入したりしたのは、どんなタイプのものだったかを思い出してみよう。  例えば、日々に行う掃除では、はたき、ほうき、ぞうきん、バケツなどを使う。昭和30年ごろ、こうした道具の中に新たに参入したのが、電気掃除機である。資料館で「どんな掃除機をお使いでしたか」と尋ねると、写真のような円筒状の掃除機を使っていた、という方が多い。  この掃除機は昭和30年代後半から40年代ごろに使っていたとうかがった。  ほうきで掃いて、ちりとりでごみを取る。そうした作業を掃除機は、一度に行う便利な道具だ。電気がまが炊事を、ローラーの絞り機が付いた電気洗濯機が洗濯を、そして掃除機が掃除を楽にした。  家事の道具は暮らしを大きく変えてきた。電化製品も進化し、初期の電化製品は、もう懐かしいものになった。  

テレビ

茶の間の視線くぎづけ

 「お茶の間のみなさんこんにちは」という司会者の第一声で始まるテレビ番組がよくあった。家族が一つの部屋に集まり、だんらんしながらの視聴を想定した言葉だった、と思われる。  家庭内にテレビが置かれるようになったのは昭和30年代のことであるが、一様に行き渡ったわけではない。初期には街頭テレビやテレビのある家に人が集まるという現象が起きた。テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機は俗に「三種の神器」とも呼ばれ、主婦のあこがれの電化製品だった。  『テレビがわが家にやってきた時』について、来館者の方々に次のようなことをうかがうようにしている。「ご成婚パレードはどこで見ましたか」「自宅のテレビですか」「東京オリンピックはどうでしたか」「カラーでした?」  受像機を提供していただく時も同様で、「このテレビで初めて見た番組は何でしたか」などを聞くことによって、大まかな製造年代を探っている。  お茶の間の風景に溶け込んだテレビの普及は、家庭生活を大きく変えたと聞く。想像するにその後、この驚きに匹敵する出来事は一般的な日常生活のレベルでは起こっていないのではなかろうか。  


 
 

チャンネル

丸くて、『回す』ものだった

 「チャンネルを回す」という表現は、今の小学生たちには通じない。というより、テレビ自体に昔のようなチャンネルは付いていない。  テレビが普及し始めた昭和30年代、チャンネルは写真のように丸く、1から12の数字が記されていた。その後、UHF放送が始まり、12の数字の中に「U」の文字が追加され、丸いチャンネルの下に、これまた丸いUHFのチャンネルが追加された。  年配の方ばかりでなく20代、30代の方でもそれほど丸いチャンネルに違和感は感じないだろう。  しかし、資料館で昭和30年ごろの丸いチャンネルの付いたカラーテレビを展示しておいたところ、小学生の女の子が「電子レンジだ」と、自信を持って言い放ったのには一瞬、驚かされた。近くにいた両親も苦笑いである。  今のテレビに親しんでいる子どもたちからすれば、丸いチャンネルは電子レンジなどのタイマーくらいに見えるのだろう。  チャンネルをガチャガチャ回す音や、チャンネル争いでチャンネルがはずれてしまったことを懐かしく思い出される方も多いだろう。  

電気炊飯器

時代とともに変化 振り返ろう自分史

 おこげができない、スイッチ一つでご飯が炊ける-。この革命的な出来事は昭和30年に起こった。  電気がま・電気炊飯器の登場である。東芝から世に送り出されたこの調理器具は、これまでのかまどでまきをくべて、火の調節をしながらの炊飯作業を、スイッチ一つに置き換えてしまった。  真っ白な胴体に銀色のふた。胴体の取っ手、スイッチの部分に黒のベークライトがアクセントになっている。当時の炊事場ではひときわ目立ったであろう。  1.1リットル炊きが定価3,200円で新発売となった。当時、大卒の初任給は5,000円から10,000円ほど。50,000円前後はする洗濯機や冷蔵庫に比べて安価であったことや実用性も高かったことから、電気炊飯器は一気に普及したようである。  先般、資料館を訪れた60代のご夫婦から「この炊飯器の構造はシンプルで長持ちするんです」と、今もこの炊飯器を使っていることを教えていただいた。  今の電気炊飯器には一機能をPRする言葉として「かまど炊き」がよく使われている。味の点では電化以前を懐かしく思うのだろうか。  


 
 

電気洗濯機

手で回すローラー式絞り器

 12月、年の瀬が近づき、寒さも厳しくなってきた。年末には大掃除が待ちかまえている。寒い時期の掃除や洗濯は、現代でも大変な仕事だが、特にたらいと洗濯板を使ってゴシゴシと手洗いする古くからの洗濯は、なおさらであったろう。  これを変えたのが、電気洗濯機。電気洗濯機が普及していったのは、昭和30年代のことで、写真のように一槽式で上部にローラー式の絞り機が付けられたものが流行したようだ。 洗濯機からローラーに洗濯物を挟み込むように入れてハンドルを回すと、洗濯物が絞られ、洗濯機側面に付けられたかごの中に出てくるという仕掛けである。画期的なアイデアであったが、今思えば、絞られるというより、押しつぶされるに近かったようだ。  その後、脱水機が付いた商品や、二槽式で洗濯槽と脱水槽に分かれたもの、そして現在の全自動式へと移り変わってきた。  お母さん方が、こうした洗濯機を見て、ワイシャツのボタンが割れたり、ひっかかったり、しわが取れにくかったりしていたころの思い出話に花を咲かせている光景をよく目にする。  

ゆで卵器

用途と形が一致 隠れた人気商品

 昭和30年前後。電化の波が押し寄せた。それは人が時間と手間を掛けて行っていた作業を、ことごとく “ スイッチポン ” に置き換えていった。  このころ、三種の神器として代表されるテレビ、冷蔵庫、洗濯機のほかにも、数々の電化製品が登場した。電気がま(自動炊飯器)は、その最たる例として別に紹介したが、ゆで卵器も、ちょっとした人気があった商品だ。  丸っこい形のこの器具は一見、用途不明と思えるほど、当時の電化製品としては小さい。箱書きを見ると「ゆでたまご器・ボイルクッカー」。合点がいくと、用途とプロポーションが、妙に一致してかわいらしい。  電化製品の中では、これまであまり話題にならなかった器具だったが、展示してみたら、「あった、あった」の声。多くの人が使ったり、購入の対象としていたようである。説明書を読んでみると、卵の数やゆで方に合わせて、水加減が詳細に記されている。  写真左は本体ががいし製で、右は金属製。がいし製の方がやや古く、昭和20年代後半に出回ったものと思われる。