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竹が生活の中に普通に存在したころは、子どもにとっても格好の遊び道具であり、玩具を作る材料であった。竹は縦方向には非常に割りやすく、肥後の守(かみ)や小刀で簡単に加工することができた。
その玩具の代表は、やはり竹とんぼであろう。親に手伝ってもらって竹馬も作った。
写真は竹がえしと呼ばれる遊びに使った竹べらで、20センチくらいの長さに切った
竹を幅1センチ強くらいで割ったものである。
遊び方はさまざまで、子どもたちでオリジナルのルールや遊び方を工夫したようだ。基本的には5本ほどの竹べらを握って上に投げ上げ、落ちてきたら手の甲で受ける。そこから竹べらを1本ずつ甲から落としていくという遊び方である。
単に落とすだけではなく、すべてを表か裏に統一して落としていくというルールがあり、手を微妙に動かしながら表か裏になるように落としていくのは、なかなか難しかったようだ。
また、竹べらに数字などを書き込み、その順番に落としていくという方法や、竹べら数本を握り空中で一回転させて、すべてをつかみ直すという遊びなど、シンプルな玩具ゆえルールは無限にあったようだ。
子どもにとって、何とも不思議で興味をそそられた遊びの一つに日光写真がある。地球ごまとともに科学がん具の代表格である。
歴史民俗資料館の受付では、平成6年から日光写真の体験を行っており、小学生に人気を集めている。
中には、ほぼ毎日のように日光写真を作りに来る子もいる。また、出来上がった日光写真を大切に保管し、時折、その束を見せに来る子もいる。
日光写真は、何も写っていない紙に絵柄の付いた薄い紙(種紙)を乗せて、光を当てるとその絵柄が何も写っていなかった紙に写し出されるというものだ。
仕掛けは、光が当たると感光して色が濃くなる紙にある。資料館では、白黒写真をプリントする印画紙を用いているため、電球の光でも1~2分程度で出来上がる。
昔は、十分ぐらい太陽の光に当てておかなければならなかった。感度や印画紙の違いである。
種紙と呼ばれる絵柄の付いた紙には、人気の漫画キャラクターや時代劇、テレビの人気者などが描かれており、種紙の白い部分が光を通し、印画紙に黒く写し出され、逆に種紙の黒い部分は光を遮り、印画紙に白く写し出されるわけである。
子どものころ憧れたもののひとつに、西部劇に登場するガンマンがあった。資料館にある40年ほど前の写真に、帽子を深々とかぶり、両手にブリキ製のおもちゃのピストルを持ち、右手に持ったピストルの銃口に口をすぼめて息を吹きかけている様子が写っている。
時代劇をまねて、ちゃんばらごっこをするのと同じように、西部劇の主人公であるガンマンをまねて楽しんでいた。
写真は、昭和30年ころのブリキ製のピストルと巻き玉である。巻き玉と呼ばれる8ミリほどの幅の紙テープには、1センチおきぐらいに粒状の火薬が仕込まれている。この巻き玉をピストルに入れ、引き金を引くと、1粒の火薬が大きな音を立てて破裂する。弾は飛び出さないが、声で「バーン」というのとは比べ物にならない大きな音だった。
ピストルでは、ほかに、コルク栓が空気圧で飛び出すものや、1円玉くらいの大きさのプラスチック製の円盤が飛び出すもの、銀色の玉が飛び出す通称銀玉鉄砲、引き金を引くと火花が散るものなどがあった。
写真は、昭和30年代の面子である。名古屋周辺では面子よりもしょうやと表現しないと叱られそうである。そのほか、あぶちとかぺったんとか地域によって呼び方が異なっている。子どもたちが、映画俳優や野球選手などに近づくひとつの方法が面子であった。写真の面子には、石原裕次郎や月光仮面、黄金バット、まぼろし探偵などが描かれている。その時代時代の流行、憧れの的が面子に記されている。 面子の基本的な遊び方は、地面に置かれた相手の面子を自分の面子を投げつけその風圧で裏返すというものである。風圧を強く与えるにはどうすればよいか、逆に受けても裏返らないようにするにはどうするか。そんなことを真剣に考える毎日を過ごしていた。
コルクはがし“バッジ”に
コンビニや自動販売機で市販されている飲み物の大半は、缶入りもしくはペットボトル入りである。最近では、ボトル缶という新しいスタイルも生まれた。 ペットボトルもボトル缶も再栓ができるという点が特徴であり、時代のニーズに適合しているようだ。 写真は、ガラス製の瓶に入った飲み物のふたに使われた王冠だ。昭和40年代くらいまでは、王冠の裏側には気密を保つためにコルクが張られていた。後には、ビニールのようなものに代わった。 子どものころ、王冠の裏側のコルクをうまくはがし、シャツの裏側にコルクを、表に王冠をあて、生地を挟み込むようにして王冠バッジを楽しんでいた。 ビール、ジュースなどほとんどの飲み物に王冠が使われていたが、子どもたちの間では、特に人気を呼んだ王冠もあったようだ。 学校の帰り道、酒屋さんや駄菓子屋さんの周辺でお気に入りの王冠を探し、さっそくバッジにしていた。シャツに王冠バッジを付けた部分が丸く伸びてしまい、家に帰ると、しかられたという方もあっただろう。 暮らしの中では、まさにごみとなる王冠ではあったが、子どもたちは、それを集め、楽しんで使っていた。 そんな、懐かしい記憶を呼び覚ます小さな小さな一品である。
時代をミニチュア化 商品本体より魅力的
おまけが欲しかった。 お菓子をはじめ、さまざまな商品に付いていたおまけ。子どもの目には、商品本体よりも魅力的でせん望の的であった。 おまけは時代とシンクロしながら変化してきた。変化の要因は、時の経済であり、産業であり、子どもたちのニーズである。 おまけの代名詞ともいえるのが「グリコ」。言わずと知れたキャラメルで、同社のおまけの歴史をたどると、大正11年の絵カードに行き着く。子どもの姿などを描き、紙でできていた。 昭和に入り、メダルが流行、大阪造幣局で作られた銅製のメダルがおまけに。戦前、戦中はアンチモニーという金属で作られた戦車や大砲など軍事色の強いものが目立ち、材料が乏しくなってからは陶器製が考案された。 おまけが最も花開いたのは、戦後の昭和28-32年。この間に作られたおまけは、種類・色合いに富む。 ブリキ、木、セルロイドを材料に、自動車や洗濯機、テレビなど、まさに時代をミニチュア化している。 その後はプラスチック製が主流となった。
置き薬売りのおまけ 時代を映す楽しい絵
家庭用の置き薬。この地域では富山からやってくる薬売りが有名である。引き出し式の薬箱が各家庭に常備され、その中に、風邪、歯痛、腹痛の薬など暮らしの中で必要となる薬が納められていた。 その中から使った分だけを年に数回、薬屋さんがやってきて補充、その代金を徴収していくという江戸時代から続くシステムである。 幾重にも重ねられたやなぎごうりを縁側で広げると、さまざまな種類の薬が効率よく収納されていた。定期的に使った薬を確認するこの機会は、家族の健康状態を確認する機会でもあった。 この置き薬の補充の際、子どもにはおまけがもらえた。その代表格が写真の紙風船である。紙風船には、時代を映す絵柄が描かれており、本品には動物と一緒に仲良くシーソーを楽しんでいる様子や、手前には、忍者と鉄人28号がプリントされており昭和30年代のものと思われる。 口を細めて紙風船の小さな穴から息を吹き込むと立方体にふくらみ、手のひらで突き上げると、クシュとかパンッと少し空気が抜けるような音を伴って手のひらに不思議な感触が残った。 薬のおまけには、他にもコマやクレヨンなどもあった。紙風船は、昭和40年代に入るとゴム風船に代わっていった。 おまけには薬屋さんによってさまざまなものが用いられていたようだ。子ども用ではないが、食べ合わせの悪いものの一覧表なども配られた。子どものころ何を手にしていたか思い出してみよう。
液を蓄えるため パイプの先工夫
7月、水浴びをする際、竹で作った水鉄砲やプラスチック製のピストル形の水鉄砲などが大活躍した。 また、シャボン玉もよくやった。球形の光に輝くシャボン玉は涼しげである。作っても作っても風に流され割れて消えていくシャボン玉は、消えるがゆえに、何度も繰り返してストローを吹き続けたくなる遊びである。 シャボン玉を吹く道具にも移り変わりがある。おおむね昭和30年ごろまでは麦わらのストローが使われ、その後、セルロイド製のストロー、さらには、先端にらせん状の針金やモールなどを取り付けたものが登場してきた。写真のシャボン玉を作るパイプは、昭和30年代から40年代にかけて使われたもので、細いストロー状の吹き口の先に、さまざまな工夫が施されている。シャボン玉の液をより多く先端に蓄えておくためで、一息でできるシャボン玉の数や大きさに差があった。 シャボン玉の液は、駄菓子屋や縁日の屋台などで売られていたものもあったが、家にあるせっけんや洗濯用の洗剤などを薄めて作ることが多かった。 せっけんや洗剤の種類によってもシャボン玉の出来上がりに差があり、友達同士で配合を工夫したりもした。何か、科学者になったような気持ちがしたのを覚えている。
姿少し変え、流行繰り返す
最近、若者の間で「キックボード」と呼ばれる乗り物?が、はやっている。片足を車輪の付いたボードに載せて、もう一方の足で地面をけって、前へ進む。 これを使って街中を駆け回る若者のテレビ映像などを見て、最新の流行にもかかわらず、懐かしさを覚えた方も多いだろう。思わず「何だ、私たちの子どものころにもあったよ」と声を掛けてしまいそうになる。 同じたぐいのモノが過去に何度か流行した。まずは「スケーター」。乗り物とはいえ、幼少期のがん具である。鉄製の足を載せる部分に三つの車輪が付き、バー状のハンドルで向きを変えるもので、現在の商品と基本は同じだ。ただし、サイズはハンドルまでの高さが60センチほどといたって小さい。 少し若い世代、いわゆる “ 団塊ジュニア ” や、その親御さん前後の年代の人は「ローラースルー」を懐かしく思うかもしれない。地面をけるのではなく、足踏みによって駆動させるがん具である。 わが家の近所の5、6歳の子どもたちの間では、昭和30年代のスケーターと同種の「ケンケンローラー」なるがん具が大流行中。呼び名や商品名などは違っても、現代に通用する懐かしいモノの一つといえる。
遊び方は工夫でいくつも
子どものころに遊んだおもちゃ。現代っ子なら迷わず「テレビゲーム」と言うのだろうか? 一つのゲーム機に異なったソフトを入れることで、遊びのバリエーションは無数にあると言ってもいい。 昭和30年代の子どものおもちゃと言えば、子どもたち自身のアイデアで、一つのおもちゃから無数の遊び方を編み出していた。 例えば、輪ゴム。輪ゴム自体はおもちゃではないが、輪ゴムを飛ばして的に当てるとき、片手で人さし指をピストルの銃口のようにしたり、両手を使ったりと工夫を凝らした。飛ばして床につくと、戻ってくる飛ばし方もあった。 写真はセミの形をしたブリキ製のおもちゃで、「セミカチ」とか「カチカチ」と呼ばれた。手のひらに収まる小さなおもちゃだ。裏側に鋼の薄い板が取り付けられており、この板を押すとカチカチと高い音を発する。 このセミカチもいろんな遊びの場で使われた。ある男性は「スパイごっこをするとき、味方同士の合図にカチカチ・カチなどと暗号を決めて遊んでいた」。ある女性は「歌を歌うとき、これでリズムを取っていた」と語ってくれた。 非常にシンプルなものだけに、工夫のしがいがあったようだ。セミカチは、駄菓子屋さんのくじで当たったり、5円くらいで売られたりしていたが、自動車用のオイル缶のふたをはめるとき、中心を押すとカチッと音がするので、これを代用していた子もいた。
ノスタルジックな色 材質には“はかなさ”
セルロイドという言葉を聞いただけで懐かしく思われる方も多いことだろう。昭和30年代ころまでは、筆箱、下敷きといった文具類をはじめ、おもちゃや洗面器などは、セルロイド製が主流であった。 セルロイドは安価で成形や着色がたやすく、大量生産向きであることから、あらゆる製品に使われていた。 写真は、昭和30年前後のセルロイド製品。色は赤を中心に多彩であるが、現在のプラスチック製品と異なり、その色自体がノスタルジックな独特の風合いを持っている。 またセルロイド製品を手にして思うのは、その材質の “ はかなさ ” である。発火性の高さからセルロイド工場や倉庫などで火災が多発し、生産量が激減したという歴史は別にしても、その弱さやもろさが当時のおもちゃや文具などから伝わってくる。 セルロイドの筆箱を見て懐かしがってみえた女性の言葉にも、「筆箱のふたのちょうど真ん中くらいから徐々に亀裂が入り、ある日バシッと二つに割れてしまうんです」という体験談があった。
雑誌がくるくる回る
昭和30年代前半ごろ、雑誌ブームと呼ばれた時代があった。特に週刊誌の発刊が相次いでいた。「週刊現代」「週刊文春」などが、昭和34年に創刊された。すでに発刊されていた「週刊朝日」「サンデー毎日」などと合わせて、多くの雑誌が流通していた。おおむね週刊誌は30円で売られていた。 そうした週刊誌ブームの中、奇想天外な雑誌が発刊された。それが、写真の「朝日ソノラマ」である。昭和34年12月に創刊されたこの雑誌は、ほぼ正方形で、表紙に33回転と表記してある。雑誌の名前が示しているとおり、中にソノシートが挿入されている。 雑誌創刊の言葉として、「雑誌がまわる。くるくる回る。くるくる回って、あなたにささやきかける。月ロケットが月にたどりついた今-この時点に立って、新しい雑誌を世に贈る。(中略)今度は雑誌から音が出る。パリのムードを身につけたこの雑誌を若い世代にささげたい」とある。 四角い雑誌を広げると、ソノシートが現れ、雑誌ごとプレーヤーにかけてしまう。すると、雑誌の内容に整合した内容の音楽や、ルポルタージュなどがスピーカーから流れ出るという仕組みである。プレーヤーのターンテーブルの上で四角い雑誌が回っているのは不思議で、目が回りそうだが、当時は、かなりの注目を浴びたようである。 最近の雑誌には、パソコン用のCDが付録として付いていることがあるが、昭和30年代、すでに音は付けられていた。
時代劇にあこがれた少年ら
懐かしい子どものころの遊びといえば、男性はめんこか、ちゃんばらが代表的。中でもちゃんばらは、その辺に転がっている棒や竹など細長いものがあれば、いつでもどこでもできる遊びだ。また、時代劇やそこに登場する人物にあこがれを抱く少年が多かったこともはやった要因だろう。 この刀は、こうしたちゃんばらをするときの刀である。さやから刀を抜いてみると、銀色に光る長さ40センチほどの金属製の刀が出てきた。もちろん刃は付いていない。しかし、先端もとがり、これでちゃんばらごっことなるとかなり危険を伴いそうである。 本当にこうした金属製のおもちゃの刀がちゃんばらごっこに使われていたのだろうか。昭和20年代から30年代に撮影された写真を集めた写真集などをひもとくと、金属製と思われる刀で数人がちゃんばらごっこに興じる姿が写っていた。子どもたちの間でけがをしないような基本的なルールがあったのだろう。最近はちゃんばらごっこをあまり見かけなくなった。
竹の竿や仕掛け巻き 空き缶は宝箱に変身
竿(さお)は、竹製の三本つなぎのものや、細長い竹一本そのままを使ったりもした。多くの場合、近所の竹やぶから切り出したものを使っていた。 糸や針は、同じく竹製の仕掛け巻きに巻かれていた。浮きは棒状のものを使い、餌となるミミズは家の裏にあったビワの木の周辺を掘るとたくさん捕れた。ミカン、サバの水煮、鯨の大和煮などが入っていたさまざまな大きさの空き缶は、当時の少年にとっては、小物入れとして実に重宝な道具となった。ごみとして捨てられたものではあったが、缶の大きさやデザインのかっこよさなど、みな、こだわりを持っていた。缶切りで開けられたふたも、すべてを取り去ってしまうのではなく、一部をつながったままにしておくことでミミズなどの餌入れに使った。 もう少し大きな粉ミルクの空き缶は、口部分に二カ所の穴を開け、針金を通して釣った魚を入れるバケツにもしたと伺った。写真の釣り具は、昭和20年代から30年代にかけて使われていたもので、当時のビスケットの空き缶に入れて写してみた。このような、自分にとっての宝箱をみな持っていた。
マイカー時代到来 波に乗るのも大変
昭和20年代、人々の移動手段は、遠距離は鉄道であり、近距離では、やはり自転車が最良の手段であった。蒸気機関車も現役だったころだ。 当時の街の大通りの写真を見ると、自転車にエンジンを取り付けた原動機付き自転車やオートバイ、オート三輪などが行き来しており、これらは比較的早くから商業用や輸送手段として用いられた。 庶民の足、大衆車として自動車、特に乗用車が使われるようになったのは、昭和30年代半ばから40年代にかけてであり、写真のブリキのがん具は、まさにそのころを象徴する人気のがん具であった。俗にマイカー時代の到来と呼ばれたころである。 昭和33年には、「てんとうむし」の愛称で親しまれた軽自動車のスバル360が富士重工から325,000円で発売されて大人気となり、35年には、R360クーペが東洋工業(現マツダ)から330,000円で発売された。 トヨタからは、大衆車という意味で、パブリック・カー「パブリカ」が昭和36年に389,000円で発売され、家族で車を使うという意識を植え付けた。 しかし、当時の月給を振り返ってみると、大卒の初任給が15,000円ほどであることから、マイカー時代の波に乗るのも大変だったと聞く。それだけに、初めて手にした車は、思い出深い一台となっていることだろう。
冷たい井戸水くみブリキ玩具楽しむ
夏の風物詩といえば、風鈴、かき氷、蚊取り線香などが思い浮かぶ。その一つに行水がある。洗濯用のタライなどに水をはって汗を流す行水はあちらこちらで見られた夏の風景だ。 手押しポンプでくみ上げられる井戸水は、とても冷たくて気持ちが良かったと聞く。「ヤカンでお湯を足して入りごろにした」との声も。家々で行水の仕方も異なるようである。 汗を流し、体を清潔にし、あせもを防ぐというおふろの効果としての行水より、子どものころの思い出としては、水遊びとしての行水の印象が強く残ってみえる方が多い。というより小さな子どもにとっては水遊びそのものだったようだ。 そこでよく使われたのがブリキのバケツと金魚のおもちゃなどである。これらは昭和20年代から30年代にかけての玩具(がんぐ)である。カラカラと音がする金魚や金魚の形をしたジョウロで遊んだ人は多いようだ。プラスチックではなく、金属であるブリキの感触や音は懐かしさの代表格でもある。 行水のタライの周りには、麦わら帽子やゴム草履、それから天花粉・汗止めパウダーで首を白くした子どもが立っていそうである。
「消える魔球」など少年の心とらえる
この野球盤は、比較的初期に作られたゲーム盤で、紙のボード製。昭和30年代の中ごろに使っていたと聞いている。 遊びの形態がさまざまな技術の進展とともに変わってきたことは明らかで、ゲーム用のがん具も、漏れなくそれに当てはまる。 野球盤は多くの少年の心をとらえてきたゲームである。写真のものは、バネ仕掛けで鉄の玉(パチンコ玉より一回り小さい)を “ 投げ ” 、盤に取り付けられたプラスチック製のバットを振り回して “ 打つ ” 。直径3センチほどの円形のくぼみが内外野に設けられ、単打、2塁打、本塁打、アウトなどに分けられている。 その後、昭和40年代に入り、さまざまな機能が付け加えられる。だれもの記憶にあると言ってもよいのが「消える魔球」である。ホームベースの少し前に開閉式の穴が開いているものだ。 資料館には、野球盤を五点収蔵している。昭和30年代から50年代にかけての野球盤で、その機能充実の変遷を知ることができる。 今日では、ゲーム盤と異なり、テレビの画面上で、よりリアルな野球ゲームを味わうことができるようになった。
立派な市販品がなくても 手作りボールとバットで
冬休みは子どもたちにとって短いかもしれないが、今も昔も楽しい行事が山積みだ。 最近の子どもたちが興じる遊びはテレビゲームが主流と言われて久しい。お正月、こたつに入ってテレビ画面に熱中する姿をつい想像してしまうが、この寒い最中に外で遊んでいる子の姿も結構、見掛けた。サッカーや自転車で駆け抜ける子がおり、空にはたこが浮かんでいた。 このミットやボールは、昭和20年代から30年代にかけて使われたもので、運動場や空き地でゲームを楽しみ、冬なら田んぼの中で2、3人でキャッチボールをしたり、投手と打者を交代したりして遊んでいた。屋外のあらゆる場所が野球グラウンドと化したかのようだった。 野球は、子どもの間でも人気の高いスポーツであり、また遊びでもあった。 展示のものは市販品だが、当時はお母さんに作ってもらったグラブで、野球に興じる子も多かった。手ごろな木の枝とタオルを丸めたボールがあれば、寒さを吹き飛ばし、自分たちのルールで野球をすることができたのである。
苦労して捕まえた一匹一匹に思い出
初夏。野や山の緑がいっそう濃くなり。川の堤防にも草花が生い茂っている。こうなってくると、じっとしていられないのが、虫好きの小学生たちである。 昆虫採集というと、夏休みのことのように思うが、すでにタモを片手に、肩には虫かごを提げた少年たちを見かけた。虫かごの中を見せてもらうと、1センチほどの小さなバッタが数匹入っていた。まだ、1、2度脱皮したくらいで、羽はまだ生えていなかった。「1月くらいえさの草を与えれば、立派なトノサマバッタになるんだ」ということだった。 写真は、昭和20年代から30年代ごろのもので、右が金網をブリキのフレームで留めたもの、左はかまぼこ形の木製のベースにやはり金網を張ったものである。 駄菓子屋さんで、タモと一緒に買ってもらったという話を聞いた。虫捕り、昆虫採集には、思い出も多いようだ。捕まえた昆虫の名前や、すぐに死んでしまったこと、昔はよく見かけたけど、今は見ない、などなど。カブトムシやクワガタは、昔も今も、虫好き少年のあこがれのようだ。 昆虫を自ら捕まえるのではなく、購入するというスタイルも定着してきているようであるが、かつて虫好きだった方々には、苦労して捕まえただけに、昆虫1匹1匹の思い出が記憶として残っているようである。
子どもたちの『宝箱』 ブリキ製は母も重宝
空き箱は子どもにとっては、創造力を発揮するアイテムだった。切ったり、組み合わせたり、色を塗ったりと工夫を凝らし、戦車や自動車などあこがれの品を作り出したものだ。写真の箱は、昭和30年代ごろのワイシャツが入っていた空き箱で、松坂屋と名鉄百貨店のロゴマークが入っている。めったに手に入らない代物だった。 ワイシャツの空き箱には、なかぶたがあって透明のセロハンが張ってあり、ガラスケースのようで、中に入れた物を引き立ててくれた。特に夏休み、昆虫採集に明け暮れた日々を送り、その結果である標本を収めるのには最高の箱だった。 ワイシャツの箱より人気だったのが、ビスケットなどが入っていたブリキ製の空き缶である。 これは、ほかの箱よりももちが良かったため母親にも使い道があり、手紙を入れたり、家計簿や通帳を入れておいたりしていた。明らかにほかの箱とは別物だと分かり、区別するために重宝したようだ。なかなか子どもたちの手には入りにくかった。ねだって、手に入れることができたなら、たいていは「宝箱」と名付けていた。 皆さんにも、子どものころ宝箱にしていた思い出の空き箱があるのではないだろうか。どんな箱で、どんな使い方をしていたのか、思い出してみてはいかがだろう。