◆ 河川活動と地形
北名古屋市の地形は、木曽川の支流(五条川の旧流=旧五条川)の度重なる流路の変動によって形づくられました。川の流れは上流から土砂を運び、川の周辺に「自然堤防(しぜんていぼう)」という周囲より小高い微高地(びこうち)をつくり出しました。過去に川が流れていた跡は、「氾濫原(はんらんげん)」という低い土地として残されています。
北名古屋市内で確認されている古墳は、すべてこの自然堤防の上に築かれています。また、古墳以外の遺跡の分布もこの自然堤防の上に集中しています。自然堤防は古くから人々が住まいを構え、日々の暮らしを営む空間となっていたようです。一方で、自然堤防の周辺に広がる氾濫原は弥生時代以降水田として、豊かな実りをもたらす空間として利用されてきました。
川の流れがつくり出したわずかな高地と低地。一見、地形的に変化の少ない北名古屋市の地勢ですが、このわずかな地形の高低差が、この地に暮らした人々の活動に長年にわたって大きな影響を与えていました。
◇河川活動と地形(自然堤防と氾濫原)
◇五条川大曲付近空撮(北から撮影)
◆ 北名古屋市内の遺跡分布
北名古屋市内には、現在48の遺跡が確認されています。
市内でもっとも古い遺跡は、市北部の熊之庄堤下で発見された堤下(つつみした)遺跡です。縄文時代中期の土器や石器、石で囲った炉の跡などが確認されています。
弥生時代には遺跡の数が増加していきます。市北部の薬師寺地区(村前遺跡、樋口遺跡)には弥生時代中期にさかのぼるムラが誕生し、弥生時代後期から古墳時代の初頭にかけて、山浦遺跡、弥勒寺御申塚遺跡、能田旭遺跡など、市内各所の自然堤防の上に人々は活動を広げていきました。
古墳時代、特に5世紀以降には広範囲にわたってムラがつくられ、水田の開発が進んでいったと考えられます。こうしたムラの近くには有力者の墓である古墳がつくられました。市内では、現在までに高塚古墳(たかつかこふん)、能田旭古墳(のうだあさひこふん)、東出古墳(ひがしでこふん)、古山王古墳(こさんのうこふん)、宇福寺古墳(うぶくじこふん)、神明社古墳(しんめいしゃこふん)、権現古墳(ごんげんこふん)の7基の古墳が確認されています。
奈良・平安時代から中世には、人々の住まいの場であるムラだけでなく、寺院や城館なども造営されます。弥勒寺地区には弥勒寺廃寺(みろくじはいじ)と呼ばれる大きな寺院が造られました。寺院の建物の基礎に使われていた石材や奈良・平安時代の瓦などが発見されています。また、市内には野崎城跡や九之坪城跡をはじめとする中世の城館の存在も確認されています。
◇北名古屋市遺跡分布地図
◆ きたなごや遺跡紹介 堤下(つつみした)遺跡
堤下遺跡は小牧市方面からのびてきた低位段丘の末端に位置する縄文時代の遺跡です。縄文時代中期後半の縄文土器、石斧(せきふ)や鏃(やじり)などの石器、底に土器の破片を敷いた石で囲った炉の跡などが発見されています。
石鏃 | 調査状況 | 炉 |
◆ きたなごや遺跡紹介 薬師寺(やくしじ)遺跡群(樋口(ひぐち)遺跡/村前(むらまえ)遺跡)
市北部の薬師寺地区では、五条川の左岸に発達した自然堤防上に広く弥生時代の遺跡が広がっています。樋口遺跡、村前遺跡では弥生時代中期の壺や深鉢(ふかばち)、土器棺(どきかん)として利用されたと考えられる大型の壺、石鏃(せきぞく)などが発見されており、この地域にムラが存在していたようです。
また、弥生時代後期、それ以降の時代の土器なども発見されていることから、この周辺が長期間にわたって人々の暮らしの場となっていたと考えられます。
樋口遺跡の調査の様子 | 土器の出土状況:樋口遺跡 | 土器の出土状況:樋口遺跡 |
弥生時代中期の壺(土器棺か) 樋口遺跡採集品 |
弥生時代中期の深鉢:樋口遺跡 | 弥生時代中期の壺:村前遺跡 |
弥生時代後期の壺:村前遺跡 |
◆ きたなごや遺跡紹介 弥勒寺御申塚(みろくじおさるづか)遺跡
弥勒寺御申塚遺跡は、現在の西春高校付近に広がる遺跡で、弥生時代からの人々の活動の跡が残されています。発掘調査によって弥生時代後期の、幅約90cm、深さ約60cmの溝が確認され、この溝の中からたくさんの土器が発見されています。発見された土器は非常に種類が豊富で、中には真っ赤に塗られた土器や実用的ではないミニチュアの壺や甕(かめ)など、マツリなどに使われたと考えられる土器もたくさん見つかっています。
発掘調査の様子 | 土器の出土状況 | 土器の出土状況 |
弥勒寺御申塚遺跡出土の弥生時代後期の土器 |
◆ きたなごや遺跡紹介 高塚古墳(たかつかこふん)
高塚古墳は、北名古屋市の北西部、鍜治ケ一色地区に残る5世紀前半に造られた古墳です。発掘調査の結果、直径が約40m、南側に幅約15m、長さ約2mの「造出(つくりだ)し」というステージのようなはり出し部分のある円墳であることが確認されています。
古墳のまわりをめぐる溝からたくさんの埴輪(はにわ)が見つかっています。土管(どかん)のような筒状(つつじょう)の円筒埴輪(えんとうはにわ)の他に、家、胄(かぶと)、甲冑(かっちゅう)、盾(たて)、蓋(きぬがさ)(貴人(きじん)にさしかける日傘(ひがさ))、鶏(にわとり)などの形をした形象埴輪(けいしょうはにわ)も大量に出土しています。
現在の高塚古墳 | 「造出し」部分の調査の様子 | 埴輪の出土状況 |
円筒埴輪 | 盾形埴輪 | 蓋形埴輪 |
胄形埴輪 |
◆ きたなごや遺跡紹介 能田旭古墳(のうだあさひこふん)
能田旭古墳は、「大回(おおまわ)り」と呼ばれる五条川の流れが大きく曲がる地点から南東にのびる五条川の旧流がつくり出した自然堤防の上に立地しています。
能田旭古墳は、発掘調査の結果、直径37m、南西側に幅22m、長さ8mのごく短い前方部(ぜんぽうぶ)をもつ、全長43mの帆立貝式古墳(ほたてがいしきこふん)であることが確認されました。古墳の山は、中世には完全に削られていたため、本来の高さや形ついては明らかにされていません。
能田旭古墳では、円筒埴輪と家、人物、馬、蓋(きぬがさ)といった形象埴輪に加えて、木で作られた埴輪(「木製立物(もくせいたてもの)」)も見つかっています。木製立物と考えられるものには、蓋形、団扇(うちわ)もしくは翳(さしば)(貴人にかざして顔を隠すための道具)を表現したと考えられるしゃもじ形、杭状(くいじょう)、板状など様々な形をしたものが見つかっています。
後円部の調査の様子 | 木製品の出土状況 | 円筒埴輪 |
人物埴輪 | 馬形埴輪の頭部 | 蓋(きぬがさ)形埴輪 |
しゃもじ形木製品 | 蓋形木製品 |
◆ きたなごや遺跡紹介 東出古墳(ひがしでこふん)
東出古墳は、熊之庄地区の神明社(しんめいしゃ)の境内で工事中に新たに発見された古墳です。古墳の山の土盛りが完全に削られていたため、偶然に発見されるまで古墳の存在は知られていませんでした。
調査により古墳の周囲に掘られた溝と考えられる部分からたくさんの埴輪が見つかっていますが、調査面積が限られていたため、古墳の元々の形や大きさはわかっていません。
出土した埴輪は、窯(かま)を使って高温で非常に硬く焼き上げられていることから、6世紀頃に作られたと考えられます。東出古墳では、円筒埴輪に加えて、人物埴輪の破片も見つかっています。
円筒埴輪 | 円筒埴輪 | 人物埴輪の頭部 |
形象埴輪(人物など) |
◆ きたなごや遺跡紹介 弥勒寺廃寺(みろくじはいじ)
弥勒寺廃寺は、現在の西春高校とその周辺に存在した古代の寺院跡です。
古くから古代寺院が存在していたことが知られていましたが、寺院がいつの時代に建てられたものであったのかは、昭和37年に行われた発掘調査ではじめて明らかになりました。
この時の調査により、寺院の建物の基壇(きだん)、塔(とう)の心礎(しんそ)に使われていたと考えられる140cm×90cmの巨大なものを含む4個の礎石(そせき)などが発見されました。また、調査で発見された軒丸瓦(のきまるがわら)、軒平瓦(のきひらがわら)、平瓦(ひらがわら)、鬼瓦(おにがわら)、瓦塔(がとう)、陶器などから、弥勒寺廃寺の創建は奈良時代前期にまでさかのぼり、平安時代、室町時代まで存続し、人々の信仰を集めていたことが明らかにされました。
弥勒寺廃寺の調査の様子 | 弥勒寺廃寺で発見された塔の心礎 | 基壇の裏込め |
瓦の出土状況 | 弥勒寺廃寺の軒丸瓦 | 弥勒寺廃寺の軒丸瓦 |
底に「寺」と書かれた茶碗 | 「猪」の文字がきざまれた瓦 |