街のキオク

自転車の空気入れ郵便ポスト陸王 赤電話 木製の縁台牛乳配達の自転車 自転車の鑑札スクーター電信棒と街路灯スイッチ ほうろう看板籾殻と卵 レジスターたばこケースたばこの値段前掛け

 

自転車の空気入れ

 歴史民俗資料館には自転車店が再現してある。店先にはチューブを取り出して、水につけ、パンクを修理している情景を展示している。   写真の空気入れを収めておく箱は、ホウロウ製で昭和30年代のものである。   自転車店の店先には、よくこうした空気入れが置いてあった。通勤や買い物の途中で空気を勝手に入れていくことができた。もちろん「借りるよ」の一言をかけてである。   商店街の店先には、空気入れのようにだれもが使えるような道具が置いてあり、人と店との交流の道具でもあった。    

郵便ポスト

円筒形はまだ健在 戦時中には陶器製も

 懐かしい風景の代名詞として、前回紹介したほうろう看板と並ぶのが郵便ポストである。
 赤い(朱色)円筒形のポストを見つけると、「おー現役なんだ」「懐かしい」と思わず声を上げてしまう人も多いだろう。  現在も時々見掛けることができるこの鋳鉄製のポストは終戦後、物資の入手がある程度軌道に乗った昭和24年から採用されたもので、正式名称は「郵便差出箱1号丸型」という。
 赤い円筒形のポストは明治34年から試験的に用いられ、同41年に正式採用された。昭和9年の改良型を経て、戦時中は物資不足のため、コンクリートや陶器製などの代用ポストが使われたりした。


 
 

陸王

 資料館の入り口に、ひときわ目を引く展示品がある。「陸王」という名の二輪車である。陸の王様・王者という名前にあこがれた方も多かったと聞く。
 この二輪車を目にした来館者の反応は2つに分けられる。「あー、陸王だ」とかけ寄る方と、遠目に見て「ハーレーだ」と叫び、近づいてみて陸王だと気づく方だ。いずれにしても、このバイクが走り回っていた時代を知る人には注目を浴びている。
 昭和30年ごろ、初任給が1万円もなかった時代に、値段が30万円を超えていたこの二輪車は、警察の白バイなどとして活躍したようで、一般には、あこがれの的であり、たやすく手に入れることのできる代物ではなかったようだ。  

赤電話

戦後、目覚しく普及 昭和30年、料金前納制が登場

 先日、資料館を訪れた子どもが赤電話を見て、母親に「こんな赤くてかわいい電話があったの」と大きな声を上げた。周りの大人たちは「?」を頭の中に描いた。  確かに、最近見掛ける公衆電話は緑が多い。ましてダイヤル式の公衆電話に出会うことはめったにない。色に敏感な子どもならではの鋭い観察であった。  さて、この赤電話はいつごろ登場したのだろうか。日本の街頭に初めて公衆電話が登場したのは明治33年。ほぼ100年前である。公衆電話が目覚ましく普及したのは戦後のことで、「あかでんわ」はそんな中で生まれた。  昭和28年、戦後の復興などで急増した電話需要に対応するため、当時の電電公社は、たばこ屋や駅の売店前に委託式の公衆電話を置いた。よく目立つように色は赤を採用した。2年後の同30年には、今ではおなじみの「料金前納制」の電話機、10円を投入してからダイヤルする機種が登場した。 今ではそんな表示はないが、初期には「10円を入れてからダイヤルしてください。つながらないときは10円玉はもどります(一部省略)」との説明書きが電話機に付けられていた。  


 
 

木製の縁台

人と人とを結ぶ役割

 ウオーキングがはやっている。緑を求めて、野に山に出掛けられる方も多い。  また日常的に歩かれる方は街中や公園を利用される。そこではベンチが格好の休憩スポットであり、仲間との談笑の機会を提供してくれる。資料館の中でも、そうした場を設けられないかと考え、布張りのソファに代えて、木製の縁台を置いてみた。これは昭和20年代から30年代にかけ、駄菓子屋さんの店先で実際に使われていたものだ。  すると、古めいた板張りの、見た目にはお世辞にもきれいと言えない、この縁台に多くの方々が吸い寄せられるように座るのである。そして「子どものころ、縁台に座って、かき氷やスイカを食べたよね」などと話を交わしている。  店先などに置かれていたこうした縁台は、その店の所有物だったわけだが、歩道と店を結ぶものであり、さらには人と人とを結ぶ役割も果たしていたようである。 家には人が寄る縁側があり、街中には縁台が置かれ、いろんな結び目となっていたようだ。モノのみではなく、そうした人の関係も記録しておく必要があるだろう。  

牛乳配達の自転車

目を引く広告看板 荷台は大きく頑丈

 朝早く自転車が家の前で「キー」というブレーキの音で止まる。新聞配達か牛乳配達である。カチャカチャと音をたてて来れば牛乳配達。大きくてしっかりした荷台には牛乳瓶を載せた木箱が積まれ、いかにも重そうであった。  暮らしの中の懐かしい音を話題にすると、よくこの牛乳配達が登場してくる。毎朝、瓶と瓶がぶつかり合う音とともに配達され、玄関先のブリキや木製の牛乳受けに、コトンと入れられる。  この自転車は、森永乳業が発売していた「森永ホモ牛乳」の看板が付いた車体が黄色の牛乳配達車である。自転車の形式から昭和30年代前半ごろのものと思われる。  森永乳業に問い合わせてみたところ、社内には当時の宣伝カー「銀星号」や商品の資料は残っていたが、この自転車に関する記録は残されていなかった。  ホモ牛乳の発売が昭和27年であったことから、そのころの販売のコマーシャルを兼ねた自転車として森永が発注、活用したものと思われるということであった。 展示してあるこの自転車を見た方は、牛乳瓶のぶつかる音が脳裏に浮かぶそうである。  


 
 

自転車の鑑札

税金を支払って入手 “自動車並み”の扱い

 「自転車にナンバープレート?」と小学生の声が聞こえた。資料館で鑑札付きの自転車を展示していた時のことだ。この小学生に聞いてみると、ナンバープレートは、自動車やオートバイなど高価な乗り物に付いているという印象を持っていた。  その印象は、ある意味では正しい。自転車もかつてはとても高額で、大切に扱われたからだ。初任給が10,000円前後だった昭和30年ごろ、自転車は15,000円ほどもした。値段だけでなく、磨いたり、修理したりと自動車なみの手入れをしていた。  そして、自転車を買って使用するには、税金を支払って写真の自転車鑑札を入手し、自転車に取り付けなければならなかった。  自転車鑑札は、地域などにより異なっていたようで、愛知県師勝村(=当時、現北名古屋市)、と名古屋市のものである。  師勝村の鑑札はナンバーの部分がスライド式になっていて、持ち主が自転車から離れる場合、抜き取っておくことができた。盗難防止の役割を果たしている。 紙芝居、アイスキャンデーの引き売りや三角乗りのほか、鑑札も、子どものころの自転車の思い出として挙げる年配の人は多い。  

スクーター

お手ごろな値段で昭和30年代に人気

 資料館の入り口付近に1台のスクーターが展示してある。富士重工(隼など軍用戦闘機を生産していた中島飛行機が前身)製のラビットは昭和21年に開発された。空冷四サイクル、135CC、最高速度55キロ。11,000円から45,000円で発売され、その後、排気量、最高速度などをアップし、昭和30年代には10万円を超えた。写真は30年代末頃のもので、このスクーターの前でよく「これラビットかな? シルバーピジョンかな?」という言葉を耳にする。三菱重工のシルバーピジョンは、同21年の発売だが、ラビットと並び、初期のスクーターの代名詞になっている。  昭和30年代には、自動車がかなり普及してきたが、50万円を超す乗用車に比べ、お手ごろなスクーターやオートバイが流行した。同33年には、ホンダから長寿商品のスーパーカブが発売され、軽快な2輪車人気に拍車をかけた。  「わが家に初めて来たエンジン付きの乗り物」は何かを尋ねると、この3台の中から答えが返ってくることが多い。それと、原動機付き自転車だろうか。  


 
 

電信棒と街路灯スイッチ

一本ずつ点灯して回る

 近年、車で少し田舎道を走っていても、木製の電柱を見掛けなくなった。ほとんどが、コンクリート製の柱に変わっている。  木製の電柱は、明治期に始まり大正時代ごろから、都市部を中心に日本全国にその数を増やしていった。照明用の電気を供給するためである。後に、電化製品の普及とともに供給される電力の量も大幅に増した。  電信棒とも呼ばれた電柱は、昭和30年には、木製が120万本、コンクリートが2万本、昭和時代の終わりには、木製が46万本、コンクリートが4百9万本と様変わりした。  木製の電柱には、鉄製のパイプを曲げた軸に電球とホーローやアルミのかさをつけた街路灯が設置され、夜道を照らした。照らしたといっても、現代のように道全体を照らし出すような強力な明かりではなかった。 先日、真っ白な陶器製のスイッチを見せていただいた。子どもの手が届かないくらいの高さに、この真っ白な陶器製の街路灯スイッチが取り付けられ、夕方になると1本1本点灯して回っていた、とうかがった。現代のように、照度を感知し、自動で点灯するものではなかった。木製の電柱が道沿いに連なる懐かしい風景には出会えなくなってきた。  

ほうろう看板

昭和の風景を物語る さびに強く屋外向き

 資料館の中に作り込まれた昭和30年代の風景。懐かしい風景の構成要素をいくつか展示することで、臨場感を高めてみた。  臨場感を演出するものはほうろう看板、木製の電柱、街路灯、板壁とトタンである。中でも、ほうろう看板の果たす役割は重要だ。  この写真は基礎となるパネルを立て、その表面にトタンや板を張り付けて壁を作り、さらにその上にほうろう看板を重ねた。看板の設営前と後では、臨場感に天と地ほどの差がある。  街中にあふれていたほうろう看板の色合いや文字の形は、宣伝という本来の役割以上に昭和の風景に欠かせない象徴的な存在だったようだ。資料館を訪れる人には、看板を張った後の完成状態をご覧いただくわけで、このほうろう看板の多大な役割を実感していただくことができないのが、残念である。 こんなほうろう看板も、最近は街中でほとんど見掛けなくなった。ほうろうはふろの湯船やなべなどに使われているように耐水性に富み、さびにも強く、屋外広告の素材としては申し分がない。実際、大正時代や昭和初期に張られた看板が、ついこの間まで現役だったのである。  


 
 

籾殻と卵

産みたてをくるみ込む

 壊れやすいものを運ぶ際に用いられるクッション材、緩衝材と呼ばれるものにも歴史がある。最もポピュラーで、現在でも多くの人が活用するのは新聞紙だろうか。今では美術品として扱われる浮世絵が江戸時代には、その役割を担っていたとも聞く。  戦前から昭和30年代にかけて、緩衝材専用によく使われていたのは、木材を薄く、細くカットしたもので、鳥の巣のような状態で箱に詰められた。  写真は、壊れやすい鶏卵を運んだり、店頭で販売したりする際に用いられていた籾(もみ)殻である。稲を脱穀した際に出る不要な部分でもある籾殻は、軽く、細かいことから、物と箱のすき間を絶妙に埋めることができ、緩衝材に適している。ある意味、リサイクル品でもあるし、自然に返すことができる資材でもある。  昭和29年発行の教科書「新しい社会科」には、家の手伝いで卵を運ぶ少年の姿が挿絵で表現されているが、リヤカーに載せられた木箱の中には、籾殻で守られた産みたての鶏卵が描かれている。 木箱に籾殻を詰め、卵を展示しておいたところ、「卵は高かった。病気のお見舞いの品にも使った」「鶏を飼っていた家も結構あった」「卵かけご飯をよく食べた」「そういえば最近、黄身が2個入った卵を見かけなくなった」などの会話を耳にした。  

レジスター

不作法さが残る計算機械

 お店で買い物や食事をしてお金を払う際、どんな道具を用いて店員さんが計算するかは、時代によって変わってきた。  古くは、やはりそろばんであろう。長きにわたってそろばんはさまざまな売り場で活躍してきた。もちろん過去のことではなく、「そろばん現役」と胸を張るお店も健在だ。  そろばんに代わって登場し、主流となったのが、レジスターである。この機械の特徴は電子式ではないこと。数字などのキーは押し込むように打ち、終わったら右側のレバーを2回転させる。チーンという甲高い音とともに計算が終わり、お金を収納する引き出しが飛び出す。  最近のスーパーでは、バーコードを読み取る方式で計算がされ、ピッ、ピッという電子音を伴って非常にスムーズでスピーディー。 このレジスターを展示したとき、しばらく眺めてみえた女性に「ぐるぐるとレバーを力いっぱい回して計算する不作法さが何だか懐かしい」と言われたことが、印象に残っている。  


 
 

たばこケース

分厚いガラス、タイル 昭和30年代の風物詩

 近年、昭和30年代という時代が注目され、博物館をはじめ飲食店、娯楽施設などさまざまな場所で当時の風景や生活用品を目にする機会が多くなった。  東京のお台場には昭和30年代をテーマとした「台場一丁目商店街」が新設され人気を集めている。10年ほど前にできた横浜の「ラーメン博物館」も有名だ。  こうした昭和30年代をテーマとし街並みを再現する際に欠かせない店が、駄菓子屋であり街角のたばこ屋さんである。  写真は、昭和30年ごろにたばこ屋さんで使われていたケースで、このケースを見れば誰もがたばこ屋を思い起こすといっても過言ではないくらい象徴的なものである。このケースの上部や横に赤地に白い文字で「タバコ」「たばこ」、または英語で「シガレット」、古いものは「こばた」と書かれた看板が設置されていた。  ケースの中に、ゴールデンバット、いこい、缶入りのピースなど昭和30年代に人気だったたばこを入れてみた。  このケースは、脚部にレールが付いていて移動できるタイプで、店を開くときには店先に押し出し、閉店時には店内にしまい込む。移動できないケースは、雨戸のような建具で覆いかぶす構造となっていた。屈曲した分厚いガラスで作られ、台となる部分は、モルタルでタイルが張りつけられている。 この時代、商店街に連なる店は、たばこ、駄菓子、乾物類など、扱う商品によって異なるケースを使っていた。こうしたケースが店構えを作り、街並みを構成していたのである。  

たばこの値段

時代とともに変化 振り返ろう自分史

 物の値段は時代とともに変わってきた。かつてその商品をいくらで買ったかを探るのは、自分の経験の積み重ねという歴史をさかのぼってみる作業にもなる。  「たばこ小売定価表」は、昭和31年4月の小売値段を表示したもので、たばこ屋さんの店頭に掲げられていた。  なくなってしまった銘柄も多いが、ロングセラーを続けている商品もある。この中で現在も売られているのは、ピース、新生、ゴールデンバットとパイプ用の桃山である。  ピース缶(50本入り)は当時200円、現在750円。10本入り40円が140円へ。新生40円が170円と約3倍に上がった。ここでは物価の上昇を考えるより、かつて自分がいくらで買ってたか、記憶の中の値段を探ってみよう。物そのものだけでなく、値段も懐かしい事柄だ。 さて、たばこを吸われる方には銘柄が重要らしい。「今日も元気だ。たばこがうまい!」の広告(昭和32年)で「いこい」を愛好した人、オリンピック記念などさまざまな記念パッケージを出した「ピース」だった人、ほかにもたくさんあるが、それぞれにこだわりがあるためか、記憶も鮮明である。  


 
 

前掛け

『動く看板』威勢良く

 先日、古くから名古屋市内で、たばこ店とお菓子の販売取り次ぎをしていた方から、資料提供の話があった。道路の拡幅工事に伴って長年の商いをやめるので、資料館で必要な物があれば、ということで、訪ねてみた。  そこには、たばこを並べるケースや看板、お菓子の宣伝用ののぼり旗など、さまざまな物が残っていた。これらを活用して、資料館のロビーに昭和30年代のたばこ店を再現したところ、来館者の間で「光」「いこい」「わかば」など、今は見られなくなった商品の名称が飛び交っていた。  提供資料の中に、前掛けが数点あった。メーカーから配給された物で、新品のまま残っていた。渡辺製菓の商品を扱っていたそうで、前掛けのほか、宣伝用の旗や輸送用のケースなどもあった。  酒屋、肉屋、八百屋など、いろんなお店の店主たちは、商品名やメーカー名が入った、こうした前掛けを着けていた。  厚手の綿でできた前掛けは、ジーンズにも匹敵するというより、それ以上に丈夫で重宝されていた。汚れを防ぎ、重い物を抱えて運ぶときは体への当たりが和らぐ。何より動く広告看板だった。 仕事に入るとき、前掛けをさっと取り出し、勢いよくキュッと腰に締める姿には、威勢が感じられた。濃紺に染められた生地に白抜き文字が浮かぶ前掛けを見ていると、そんな情景が思い起こされる。