暮らしの道具

ヘチマたわし鋳掛(いかけ)蠅帳(はいちょう) 水枕ミカン箱保温・保冷ジャー手回し洗濯機ほうきワンピース型紙オブラートタワー写真用三角コーナーへちまコンパクトミラーおしろい粉ねじしめ錠ラーメンどんぶりくじらのひげ糸巻きバリカン廃物利用五百種ジュラルミン 防虫剤の袋カーテンの留め金具有線放送アルミ洗濯バサミいずみ買い物かご薬箱しんし洗濯板黒電話ハエたたきひのし噴霧器まな板手洗い器箱ずし真空管乾電池応接間8ミリフィルム歯磨きペナント

 

アルミ洗濯バサミ

軽く、薄く、弱々しく 手にとればはかない

 毎日の家事の一つである洗濯。洗濯は洗濯板から電気洗濯機へと変化した。  洗濯が終わって、洗濯物を干すという作業も、乾燥機を併用する家庭が増えているようだが、大半は、物干しざおに洗濯物をつるすという昔ながらの方法である。  洗濯物を風で飛ばされないようにするのが、洗濯挟み。写真の洗濯挟みはアルミ製で、20年ぐらい前までは、主流だったが、今はほとんどがプラスチック製である。  アルミ製の洗濯挟みには、「ダイヤピンチ」や「江戸っ子ピンチ」などの名前がつけられていた。「ピンチ」という言葉も懐かしい言葉の一つになってきた。  アルミ製の洗濯挟みの利点は、まず、さびないこと。洗濯物は水分を含んでおり、鉄などではすぐにさびてしまい洗濯物を汚すことにもなる。  ただし、バネの部分は鉄製で、うっかりするとバネのさびが洗濯物についてしまったという話も聞く。  この洗濯挟みを手に載せてみると、アルミの軽さと、薄さと、弱さが指の先から伝わってくる。何か懐かしくまた、はかない触感である。  手元にはないが、セルロイド製の洗濯挟みを目にしたことがある。アルミ製以上にノスタルジーを感じた。

いずみ

炊きたてご飯をおひつごと保温

 年末から2月にかけて、各地の博物館、歴史民俗資料館は小学校3年生の見学でにぎわう。3年生全員がバスに乗り合わせて資料館にやって来るのである。当館にも市内はもとより、近隣の市町村の学校もやって来る。 小学校3年生のカリキュラムに「昔の暮らし」を学ぶという内容があり、その授業の一環として博物館、資料館などを見学し、実際に使われていた昔の道具からさまざまな事柄を学ぶ。 かつては、この学習に必要な教材は明治時代、大正時代、昭和初期ごろまでの生活道具や農機具などであった。 しかし、最近は、昭和初期ごろと戦後の電化製品が普及していった昭和30年代という時代を対照して学習するケースが非常に増えてきた。今の子どもたちが暮らしの中で使っている道具と照らし合わせながら、時代をさかのぼることができるからだ。 写真の「いずみ」などは、こうした学習によく用いられる。今の子どもたちの暮らしでは、ごはんは電気炊飯器で炊き、保温もできる。それが当たり前のこととなっている。 そこで、かつては薪やわらなどを燃やして、かまどでごはんを炊き、おひつに上げ、温めておくにはこの「いずみ」を使う-。という説明により、毎日行われる炊飯を通して昔と今の違いを学ぶのである。 「いずみ」はわらを編んで作られたふた付きの容器で、おひつをそのまま収めることができる。保温するというよりは、冷めにくくするというほどのものであったが、重宝されたようだ。このいずみに幼い子どもを入れておくということも行われたようで、わらという材質の持つ特性が生かされていた。  


 
 

買い物かご

財布入れ八百屋へ… 懐かしい昭和の情景

 色とりどりのビニールを巻いた針金で編まれた買い物かごを片手に提げて八百屋さんに晩ご飯の材料を買いに行く。昭和40年代ごろまでは商店街などでよく見掛けられた情景である。  昭和30年代ごろまでは、イグサなどの植物で編み込まれた手提げ袋がよく買い物に使われていた。その後、竹製のかごやビニールを巻いた針金で編まれたものに変わってきた。  この変化は昭和を代表する女性「サザエさん」の中にも読み取れる。新聞に連載され始めた昭和20年代から30年代にかけては、空の手提げ袋を持って買い物に出かける様子が描かれ、同40年代には、展示のものと同様の大きく口が開き、形のしっかりしたいわゆる買い物かごを使っているサザエさんが描かれている。  こうした買い物用の袋、かごは材質や形状は変わったが、ついこの間までよく見掛けた。 針金で編まれた買い物かごは、自転車の荷台に縛りつけてもよし、どこに置いても安定している実に重宝なものであったろう。空のかごに財布を入れて買い物に行く。生活の変化の中でそんな風景も懐かしくなった。  

薬箱

江戸時代から始まった 家庭に常備する置き薬

 伊吹おろしが吹き荒れ、冷え込みと乾燥が厳しい季節。いてつくような乾いた寒気は、干しいもや切り干し大根などを作るのに役立つが、風邪や手荒れといった不具合の原因にもなる。  都市や近郊では近年、大型店舗の薬局も見掛けるようになり、風邪薬など市販薬の入手方法は様変わりした。  この箱は、家庭用配置薬のケースである。戦後から昭和30年代のもので、一般家庭に常備されていた。こうした置き薬は江戸時代に始まっており、 “ 富山の薬売り ” は多くの人が知るところ。置き薬は現在でも行われている。薬を何種類かこれらのケースに収納しておき、客が使った薬を定期的に補充し、その補充分の代金をもらうシステムだ。 薬屋さんが補充に来るとき、風船やコマなどを子どもにおまけとして配っていたのを覚えている方も多いだろう。私が子どもの時分はゴム風船だったが、それ以前は紙風船が親しまれていたそうだ。膨らませた後、突き上げると、クシュとかパンッと音を立て、独特の感覚が手のひらに伝わるあれである。  


 
 

伸子

着物を洗う作業が家庭でも日常的に

 6月、週間天気予報を見ても曇りや雨のマークが連続し、蒸し暑い梅雨の日々が続く。洗濯物が乾かず、布団を干すこともできない毎日であるが、水田に植えられた稲や、そこで生きるカエルたちにとっては欠かせない雨でもある。  雨の降る日は、洗濯物を家のなかで干す。乾燥機を使う家庭も多くなったようだが、湿度の高い雨の日に、家のなかで干された洗濯物は夏の強い日差しで乾いたそれとは異質なものである。現在、私たちが身にまとう衣服は仮にこうした状況でも、洗濯して乾かすことができるが、着物ではそうはいかないだろう。 写真は着物や浴衣などの糸をほどき、反物の状態にして干すときに使う道具で、伸子、もしくは伸子針と呼ばれるものである。伸子は、長さ40cmほどの竹ひごの両端に2mm程度の長さの細い針がつけられたもの。  木製の布を挟み込む器具で留め、布を広げた上で、伸子の両端の針を布の両縁にさして弓なりに張り、しわを伸ばす、あるいは布が縮まないようにするためのものだ。この伸子張りでは、庭の木の幹などにひもでつないで張り渡すため広い空間が必要となるのである。また、伸子を使う方法のほかに、張り板と呼ばれる幅約40cm、長さ約2mの板にのりをつけて張って乾かす洗い張りもよく行われた。  昔は、着物を自宅でほどき、洗っていた。洗った着物は再び同じ姿に戻されたり、使い込まれたものは、もんぺなどさらに別の形で活用されていた。多くの家庭で着物を解き、洗って、張って、再び着るという作業が行われていたようである。  

洗濯板

今でも汚れ物に重宝

 12月、朝、顔を洗うのもこたえるくらい水道から出てくる水は冷たい。かつては、この手を切るような冷たい水を使って、ほぼ毎日の日課として行われた家事労働が洗濯である。そして、洗濯板は多くの方々が実際に手にし、毎日使っていた道具でもある。  写真の洗濯板は凹凸が横一線木製である。イギリスで見かけた洗濯板はガラス製であった。フレームは木製であるが、洗濯物をこすり付ける波状の部分がガラスでできているのである。アメリカでは、スチール製が主流だったようだ。  こうした洗濯板は、電気洗濯機の登場により過去の道具となったが、最近見直され、汚れのひどい靴下やワイシャツの首回りを洗うのに重宝されているとも聞く。近所のホームセンターのような店をのぞいたら、写真とほぼ同様の洗濯板のほか、樹脂製や手のひらサイズの小さな洗濯板が売り場の一角を占めていた。 資料館には、多くの小学校が見学に訪れる。小学校3年生で昔の暮らしを学習するからだ。従って、現代っ子も洗濯板はよく知っている。しかし、使ったことのある子どもはまれであり、使い方をよく知っている高齢者の実演、手ほどきの機会が提供できれば世代間の交流にもなり、貴重な経験を子どもたちに与えられるのではと思うところである。


 
 

黒電話

時間が必要『ダイヤル回す』

 テレビのチャンネルを回すという言い方が、子どもたちに伝わらなくなった、資料館の展示品で、これと同じように言われているものがある。  写真の電話機である。電話をかける際は、当然「ダイヤルを回す」という表現が使われたのだが、最近の電話機では「番号を押す」や「(番号を)選択する」に代わった。  この電話を展示しておいたところ、かけ方が分からない子どもは意外に少なかったが、自分の家の電話番号を回すのに「遅い」を連発する子どもが多かった。確かにダイヤルを回してから戻るまでにかなりの時間が必要となる。この電話機が、普通に使われていた昭和30年代から、ついこの間まで、電話をかけるのに当然、必要な時間であったのだが。 プッシュ式や短縮番号、さらには、相手先の番号を登録、検索してかける方法からすれば、長い時間といえる。電話機のダイヤル部分には「受話器を耳にあて、ツーという音(発信音)を確かめてからダイヤルを回してください」と注意書きがあり、電話が一般化していく過渡期をしのばせる。    

ハエたたき

たたく部分は金網 重み利用しバシッ

 9月、子どもたちが、夏の遊びをおう歌する夏休みも終わった。長いようであっという間の出来事のように思えるのは、今も昔も変わらないようだ。夏といえば、あまり活躍の機会はないほうが良いのだろうが、重宝するのがハエたたきである。  写真は昭和30年ごろのハエたたきで、荒物屋に長い年月眠っていたものだ。フレームは針金で作られ、たたく部分は金網が取り付けられている。金網ゆえに重みがありハエもひとたまりもなさそうである。  昔に比べてハエの数もずいぶんと減った。ハエたたきで届かない天井にいるハエは、一メートルほどのガラス製の管の先端がロート状にひらき、手元に卵大の球がついているハエ捕り棒が活躍した。天井からつり下げられた粘着テープのハエ捕りリボンも多くの家庭で使われていた。  ハエを追撃する道具のほか、金網の張られたハエ帳や食卓の上にかぶせるようなハエ除けも守りの道具として活躍した。  ハエたたきはお勝手場などハエのよく出没する場所の柱にくぎを打ち、いつでも手が届くように準備されていた。息を殺してそっと近づき、ハエを仕留める。家族の中にその達人が一人はいた。  


 
 

火熨斗(ひのし)

火鉢から取り出し 炭で和式アイロン

 懐かしい暖房器具というと炭、練炭、豆炭を使った火鉢やあんかを思い起こす。手元足元の局部を温めるのには最適であった。  寒い冬の間は朝起きて顔を洗うより前に、炭や練炭に火を起こすことが多かったようだ。最近、練炭を話題に出すと、まず先に、一酸化炭素中毒が連想されるようになってしまったのは寂しいことだ。  写真の手鍋のような物は、衣類など布製品のしわを伸ばす道具で、火熨斗(ひのし)と呼ぶ。ボートのような形をした西洋式のアイロンが日本に入ってくる前から使われていた。  金属製の器の部分に火を起こした炭を入れ、その熱でしわを伸ばしていく。昔は、火鉢の中に絶えず炭火があったため、火熨斗や「こて」のように、炭火で加熱する道具をいつでも使うことができたようだ。    

噴霧器

一時代前の殺虫剤器 今の子見れば水鉄砲

 子どもたちに質問してみた。「何に使ったものか分かる?」と。しばらくして一人の小学生が「変わった水鉄砲!」と答えた。  確かに水鉄砲に似ている。しかしピストル形でもないのに、現代っ子がどうしてこんな連想をしたのだろうか。「お父さんに竹で水鉄砲を作ってもらったことがあって、それに似ている」ということであった。形から水鉄砲を思い浮かべたことや、それを手作りした経験があるとの話がうれしくて、答えを「ほぼ正解」にしてあげた。  ほかの世代の来館者に同じ質問をしてみると、30代以上の方は大体、知ってみえた。しかし、20代となると見たこともない人が圧倒的に多くなる。フマキラーやキンチョールは知っていても、そこから推し量る以前に不思議なものに見えるようだ。若い世代にとって殺虫剤の容器は、押すだけのエアロゾール式なのである。  噴霧器は、前方のタンクに殺虫剤を入れ、竹製の水鉄砲のように握りを押すことで、霧状に噴き出させるものだが、当たり前に生活の中にあったものがこの10年、20年の間に消えている現実を見た。  


 
 

まな板

台所の変化で脚が不要に

 料理の材料を切るときに用いる板である、まな板は、「真魚板」とも書き、真魚(まな)は料理に供する魚をいう。  さて、今、ご家庭で使われているまな板を思い出してみよう。どんなまな板だろうか。  多くは、プラスチック製の白いまな板を使われていることと思われる。値段も手ごろで、魚や肉類をさばいた後、殺菌消毒が簡単にできることから衛生的であることが最大の利点だろう。もちろん、ヒノキ製の一枚板のまな板でなければ、まな板にあらずとされている方も多いと聞く。  それでは、写真のような一枚板に脚が付いたまな板を現在も使われている家庭は、どのくらいあるだろうか。  このまな板は、戦前から昭和20年代に使われていたもので、まな板の両端に3センチから5センチほどの高さの脚が付いている。これは、木材が1本ずつ取り付けられているものであるが、4本の脚が四方に付いたものもあった。かつては、こうした脚付きのまな板が主流であった。では、いつごろ、まな板の脚は消えたのだろうか。  それは、昭和30年ごろから現代のようなステンレスの流し台、システムキッチンが用いられるようになり、その上で調理を行うようになったことで脚が消えたようである。 以前は、板の間や低い調理台でかがむようにして調理していたため、まな板には脚が必要だった。     

手洗い器

“水の節約”おおいに貢献

 昭和時代に使われた日用品を集めて展示し、それを保存していく活動を続けている本館で、暮らしの展示に欠かせないのにもかかわらず長い間、入手できなかった資料がある。  それは家の手水(ちょうず)場に取り付けられていた手洗い器だ。プラスチック製は今なお見掛けることがあるが、ほうろう製やブリキ製はなかなか残っていなかった。  容器に水を蓄え、下に付いている細い棒を押し上げると栓が開き、手先を洗う程度には適量の水が流れるという仕組みである。若い方だと、学校などに備え付けられていた手洗い用の液体せっけんをためた容器を連想されるかもしれない。同じ構造である。  手洗い器は、水道が普及し、室内のいたる所で蛇口をひねれば水が出る暮らしになって、日常から姿を消していった道具といえる。  現在、展示品に加えてあり、訪れてくる方々が口々に「あった、あった」と声を上げる。中には「確かに手を念入りに洗うというには、水があまり出なかった。でも、水の節約にはなるよな」と、当時の暮らしの知恵に気づく方もいる。    


 
 

箱ずし

郷土の味を漬けたお祭りの日の食事

 写真の四角い箱が積み上がった道具は、箱ずし(押しずし)を漬けるためのものである。昭和の初めから40年ごろまで、各地の一般家庭でよく使われていた。短辺17cm、長辺26cm、高さ6cmほどの箱には、底板とふたが備わっている。この箱の中にすし飯と具を入れてふたをし、木枠にセットして左右にくさびを打つことで、箱の中のすしに圧力を加えることができる。  おおむね、5箱セットになっているが、1箱から押しずしを漬けることができる。このセットが2つ3つと残っている家もあり、話をうかがうとお祭りの時、親せきが大勢集まるため、たくさん作ったそうだ。  昔、どんな箱ずしを作ったかを尋ねると、多くの方が、「はえずし」を口にされる。「はえ」は小川でとれる小型の淡水魚で、ごく身近な魚である。この魚は、素焼きにして保存することも可能で、かつては貴重なタンパク源となっていた。素焼きにすることで魚の生臭さがとれ、かつ、骨まで軟らかく煮ることができるようになる。  素焼きにした魚は、しょうゆ、砂糖、ショウガで煮あげ、いわゆる甘露煮状態にする。箱には、まず「はらん」という植物の大きな葉を敷き、すし飯を適量詰め、煮上がったはえを並べて再びはらんを載せ、ふたをする。これを必要な箱数作り木枠にセットする。 すし飯とはえの味がなじんだら、底板を押し上げ、箱の中から取り出せば切り分けて食することができる。私の家では、祖母がサバを酢でしめて箱ずしにしていた。秋のお祭りのころの風物でもあった。箱ずし、押しずしは地域によってさまざまな具材を用い、郷土食ともなっていた。    

真空管

懐かしいオレンジ光 ラジオ、テレビで活躍

  終戦を迎えた昭和20年8月15日、戦争が終わった事実を知ったのは、ラジオによる玉音放送だった、という話をよくうかがう。  どんなラジオでしたか、と聞くと、木製でがっしりしていて、表に布地を張ったかなり大きなラジオだったそうである。  また、そのころのラジオの心臓ともいえるのが真空管だったということ、真空管が放つオレンジ色の光が懐かしいという言葉も、よく耳にする。  資料館に提供された真空管式のラジオで、受信のできる状態のものが何台かある。実際に電源を入れると、徐々に真空管にオレンジ色の灯がつき、電源を入れてから数十秒後に放送を受信することができる。  昭和20年代の終わりころ、新しい放送メディアとしてテレビが登場したが、真空管はここでも活躍した。放送や通信の主役だった。 その後、昭和30年ころから、真空管はトランジスタラジオの市販、普及とともに姿を消していった。  


 
 

乾電池

モーターおもちゃの陰の主役

 暮らしの中の隠れた必需品。それが乾電池である。  使用するときは、何かしらの器具の中に収められて力を発揮し、その姿を見るのは電池切れのときだ。  そもそもは、自転車にも取り付けることができる四角い手提げランプや懐中電灯の普及とともに盛んに使われるようになったようだ。中には自転車に付けた手提げランプの方が懐かしいと思われる方も多いだろう。また、昭和30年のトランジスタラジオの発売、その普及によっても乾電池は飛躍的にその生産量が増加した。  さらには、昭和30年代、ゼンマイ式の動力で動くおもちゃが主流だったところに、モーターで動くおもちゃが登場した。それは大人がもっぱら使っていた乾電池が、今日のように子どもも大量に消費するようになった始まりとも言える。 展示品は、昭和20年代から30年代ごろの乾電池である。その外装に懐かしさを覚える方も多いかもしれない。また、ハイパー乾電池という名の中に時代のパワーを感じることもできる。

応接間

現代の生活様式の原点

 戦後、特に昭和30年代から40年代に、多くの家庭で取り入れられた典型的な部屋があった。応接間という洋室である。  新築の家はもちろんのこと、すでに住み慣れた古い建物の中にも、建具を障子やふすまから洋風のガラス戸にしたり、また土壁を化粧ベニヤ板で覆ったり、畳を板敷きに替えたりして、洋室に改装するものがあった。そして、テーブルなどの応接家具を置くことで、客人をいすで招待する場が造られた。  おおむね玄関のすぐわきの部屋で、洋食器を使い、コーヒーや紅茶でもてなす。洋風の生活へのあこがれの一端で、ベッドを含め、「畳や床から身体を離すことに新しい生活様式を求めていたような気がする」という方も多いようだ。 洋風化は明治、大正期に勢いよく入ってきた。一般家庭では昭和30年代以降、より浸透し、現在の生活様式の原点という意味で、懐かしく思われるようだ。    


 
 

8ミリフィルム

よみがえる思い出 保存の動き活発化

 ビデオカメラの小型化は最近では当たり前になり、携帯電話でも動画の撮影や送付が可能になってきた。  8ミリの撮影機や、ベータ、VHSのビデオカメラが発売され、あこがれて購入した当時から比べると、レンタル店では、ビデオに代わりDVDが主流になるなど時代の進み具合が見えてくる。  そうした状況のなか、大正から昭和初期にかけてのアナログのフィルム映像を掘り起こし、保存する動きも活発化してきている。16ミリや8ミリのフィルムは、時とともに劣化し、フィルム本体が切れて再生不可能になってしまうのである。  先日、長野県内の博物館職員の集まりに参加した際、「ナトコの映画館」を主宰する方にお会いした。ナトコとは終戦後GHQが日本に持ち込み、巡回映画会に使用した映写機のこと。「大正末期から昭和20年代の古い映像を、その時代活躍していたお年寄りたちに見てもらいたい」という思いのもと、収集・修復したフィルムを携えて、平成2年より全国各地の老人福祉施設で巡回上映会「ナトコの映画館」を開いている。  映像を見た高齢者からは、当時の思い出がよみがえり、感動が起こり「私はあのころこうだった」「私の田舎ではああだった」と、たちまち元気なコミュニケーションが始まるようだ。 写真は、昭和30年ごろの8ミリ映画で「オスワイルドの悪戯」「水泳読本」などの映像が収録されている。    

歯磨き

粉末や練り、瓶入り 昭和の日常を伝える

 昭和の日常を伝える資料館の展示品に歯磨きがある。毎日使う日用品の中でも、その種類の多いことでは、他の追随を許さないほどである。  展示品にも粉末歯磨き、練り歯磨きあり、瓶入り、チューブ入り、袋入りあり、ライオン、サンスター、花王、資生堂、仁丹などメーカーも当時から多数、参画している。展示の歯磨きはいずれも、昭和30年ごろに使われたものである。  その後は、もっぱらチューブ入りが主流となり、昭和50年ごろには、金属製のチューブからラミネートチューブという柔らかい材質に変わったことは多くの人の記憶に残っている。  ところで先般、新潟県の県立博物館の方が当館にみえて、サンスターの昭和31年当時の歯磨きを撮影された。同博物館の中に往時の雑貨屋さんを再現するということで、実物資料が必要になったらしい。メーカーなどを当たったが、どこにも実物は残っていなかったということだった。 博物館の歴史民俗分野の展示品も、このところ大きく変わり、昭和時代を外せなくなってきている。  


 
 

ペナント

粉末や練り、瓶入り 昭和の日常を伝える

 旅行に出かけると目的地の名所や風景などをながめる目線がつい土産品店に行ってしまうことがある。おみやげを選ぶことは、旅の楽しみであり、旅の目的の一つでもある。 土産品の古くからの定番といえば、やはりこけし、絵はがきであろうか。資料館にも3000点を超す土産品が集まってきている。 こうしたおみやげは、整理ダンスの上のガラスケース、人形ケースなどに収められ、旅を重ねるごとに増え続ける。 しかし、土産品を収めていた家具も時の流れの中で処分され、従って集めた土産品も行き場を失って、資料館という保存施設に持ち込まれるようになった。これまで、たくさんの土産品が提供されてきたが、ペナントは、つい先般まで一枚もなかった。壁に張られるという用途から汚れたり、張り替えられたりで、なかなか残らないものなのだろう。ペナントには、観光地の名跡や風景、名物などが刺しゅうやプリントで描かれている。  昭和40年代から50年代にかけて、おみやげといえば、ペナントという時代があった。  


 
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