おやつ

キャラメルラムネと栓抜き牛乳瓶のふたドロップ粉末ジュース即席カレー冷菓

 

キャラメル

100年の歴史持つ昔のおやつの代名詞

 キャラメルの語源は、カラメルと同じで、ポルトガル語に由来する。日本では明治32年に創始したとされるので、ほぼ100年の歴史を持つ菓子ということになる。
 昭和に入ってからの価格の変遷をみてみよう。一般的なキャラメルを例にとると、おおまかに戦前は10銭、昭和25年で20円、その後、同40年代に30円、40円、50円となり、同55年には60円に。モノの値段を探るのは自分の歴史をひもとく手段でもある。
 「キャラメル」にはどこか懐かしい響きがある。これは、キャラメルが子どもの生活、文化にも深く根付いていたからである。  例えば、学校の帰り道、じゃんけんをして、パーで勝ったら「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」で6歩、チョキなら「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」で同じく6歩、そしてグーで勝てば「グ・リ・コ」で3歩進めるという遊びがあった。
 パイナップルやチョコと同じく、子どもが好きなおやつの代名詞として存在していた。まさに「お菓子の王様」といわれたゆえんでもある。

ラムネと栓抜き

 多くのビン入りジュースが王冠で閉じられているが、ラムネは中に入っているガラス製のビー玉が栓となっている。その栓を開ける際に用いられるのが2センチくらいの棒に手を当てる円形の木が取り付けられた栓抜きである。 ラムネの飲み口部に張られた紙ラベルをはがし、飲み口にこの栓抜きを挿入し、力強く手でたたくと、栓となっているビー玉がはずれるというものだ。 ラムネを見ているとどうやって栓をしたか?が不思議である。調べてみるとビー玉が外れた状態でラムネの原液と炭酸をいれ、そのビンを急激に下向きにすると、炭酸の圧力でビー玉が飲み口につけられたゴムパッキンに圧着するということである。


 
 

牛乳瓶のふた

メンコやこま代わりに 子供の頃の思い出

 資料館には、牛乳瓶や乳酸菌飲料のガラス瓶が展示してある。それほど珍しくはないが、多くの見学者が「そういえば、牛乳ってガラス瓶だったよね。乳酸菌飲料もガラス瓶だったんだ」と声を発する。  もちろん、今でも小学校の給食にはビン入りの牛乳が使われているし、家庭への配達や、観光地などでもビン入りの牛乳やコーヒー牛乳を目にする。しかし、以前に比べれば、紙パック入りの牛乳が増えたことから、牛乳瓶も懐かしいものの一つになって来ているようだ。  写真の紙製のふたは、上2点が牛乳瓶のふたで、下7点は乳酸菌飲料用の瓶のふたである。ふたには、製造日や賞味期限ではなく、曜日が記されている。  子どものころ、これらのふたをたくさん集めたことがある。ふたをメンコ代わりにしたり、飛ばして遊んだり、中心にくしを刺してこまにもした。  中には、たくさん集めることに情熱を傾ける友だちもいた。菓子箱に収まり切らないほどの牛乳瓶のふたを見せてもらったことがある。  展示してある牛乳瓶の前では、脱脂粉乳やテトラパックの牛乳、小学校での思い出などの話に花が咲いている。  最近の牛乳瓶のふたには、外しやすいよう突起が付けられて便利になったが、こまを作るにはバランスが崩れてしまう。今の子どもたちは、このふたでどんな遊びを工夫しているのだろうか? それとも、そのままごみと化しているのだろうか。  

ドロップ

今も子どもたちを魅了

   甘くて、フルーツの味がする飴(あめ)玉。中でもドロップと称される赤、緑、黄、白など色とりどりの飴は多くの子どもたちを魅了した。 大正時代の終わりごろから、きれいな缶入りのドロップが各メーカーから売られ始めた。森永製菓が大正13年に発売したフルーツドロップの缶は、絵柄がプリントされており、飾っておけそうだったようだ。携帯用の小缶が80匁(もんめ、1匁=3.75グラム)入りで45銭だった。  缶についている丸いふたを開け、カラカラと振ってドロップを手のひらに取り出す。「赤いのが欲しかったけど白いハッカが出てきた」とか「食べ終わった空き缶を宝物にしていた」などの思い出をうかがうことが多い。  缶入りのほかに、円形のタブレット状のドロップを重ねて筒状にし、紙で巻いたポケットタイプの商品も人気があった。  


 
 

粉末ジュース

“家庭の味”楽しんだ懐かしい即席飲料

 語る必要のないほど、ポピュラーだった商品である。共感を持たれる資料としてはトップクラスでもある。資料館の展示コーナーでは「おいしかった」「うちはオレンジじゃなくてソーダだった」などの会話が、来場者の間で弾む。  家庭で作った飲み物としては、「カルピス」やこの「ジュースの素(もと)」がある。カルピスは戦前から親しまれている乳酸飲料で、昭和30年代には、お中元の “ 代表格 ” になった。  ジュースの素はその名の通り、袋の中の粉末を水で溶くと、オレンジジュースが出来上がる。同種の飲み物としては、このほか、春日井製菓のシトロンソーダも懐かしい。冬場には即席の汁粉、ココアなどを味わった。  粉末ジュースは、昭和29年に雪印乳業から発売されたことが始まりといわれ、30年代中ごろ、折しもインスタント食品がはやりだした時期に大人気となったようである。  ジュースの素などは、なぜか出される家ごとで味が違っていた。薄かったり、濃かったりと、加える水の量のさじ加減が意外と難しかったようだ。そこにも “ 家庭の味 ” があったのかも。  

即席カレー

粉末からレトルトへ 作り方がより簡便に

 カレーは言うまでもなく、ポピュラーな食べ物であり、子どもたちをはじめ、多くの日本人にとって欠かせない家庭料理として定着している。  カレーがここまで私たちの食生活に浸透したきっかけは何であろうか。特徴ある味や香りが好まれたという理由のほか、作り方がより簡便になってきたことによるところも大きい。  カレーは、そもそもさまざまな香辛料を配合した混合香辛料だ。香辛料としてのカレー粉は「カレーライス」に生まれ変わるまで、それなりの手間を要する。この手間を省いたのが、即席カレーである。  即席カレーはまず、カレー粉に近い粉末の状態で世に送り出された。カレー粉に小麦粉やバター、ミルク、砂糖、塩などを混ぜて販売。戦前からの「即席ハウスカレー」や昭和20年発売の「オリエンタル即席カレー」はその典型で、なじみが深い。  次に固形ルーが登場する。29年には「エスビーカレー」、35年にハウス「印度カレー」、グリコ「ワンタッチカレー」などが続々登場。今日、さらに嗜好(しこう)により分化している。  42年にはレトルトカレーが登場し、簡便さはとどまるところを知らない。   


 
 

冷菓

キャンデー主流から乳製品のアイスへ

 7月に入って暑くなった。冷たいものを口にしたくなる季節である。喫茶店やレストランなどにも「氷」の涼しげなのぼりが目に付きはじめた。  暑い夏、身も心も冷やしてくれる冷菓の代表は、やはりアイスクリームであろうか。アイスクリームのパッケージで、側面に緑と赤の絵柄というのを覚えている方も多いだろう。昭和40年前後に市販されていたバニラアイスクリームである。昭和30年ごろは、アイスキャンディー、いやアイスキャンデーが主流だったが、30年代後半から乳製品としてのアイスクリームが人気を得てきたようだ。当たり付きの「ホームランバー」などもなじみのアイスクリームであろう。 また、冷菓としてのかき氷については、愛知県半田市の駄菓子屋さんから面白いものを提供していただいたことがある。かき氷用のおかもちである。  「かき氷の出前?」と思わず聞き直してしまった。昭和30年代ごろまで、夏になると、ご近所から出前をよく頼まれたそうである。